ユンデフレミング

5.-的外れな慕情-


 つまり、私が見た(聞いた?)幽霊と、彼らが見た幽霊は別物ということか?
 いや、そうとも限らない。たまたま前回だけ、別の曲を弾いてみたくなったという可能性もなきにしもあらずだ。
 だが、そう都合のいい解釈をしていいものだろうか?どうも腑に落ちない。
 相変わらず重い音楽室の扉を開けると、いつも通り都都が居た。もはやこいつこそ音楽室に住み着く幽霊と言われても何の違和感もない。
 どうして電気付いてないんだろう。カーテンは開けきられて、大きなガラス窓から落ちかけの太陽の光が入ってくるから暗くはないが、夕日というのは不思議なもので、どれだけ取り入れようと明るくなった気分はしないものである。
 こちらに気づいた都が、手と足を止めて、鞄を持ってこちらに寄ってくる。
「あ、真紀、来たわね」
 来もするわ。といっても、もう準備室を調べる気にもならないし、調べろとも言われてないんだけど。なんとなく足の癖という奴で来てしまうのだ。
「ちょっと菱谷君があなたに話があるっていうから、ちょっと帰る前に聞いてやってくれない?」
 ピアノの陰から菱谷君が出てくる。珍客と言ってもいいだろう。音楽室なんて授業以外ではこないだろうに、所在なさげにしているのが見て取れる。他人の教室に入った気分なんだろうな。
「私は先に帰るから」
 都都はいつになく真面目腐った表情で、というより、笑いを必死でこらえたらそういう顔になったというような緊張感溢れる真顔で私の横を通り抜けた。
「えっ、ちょっ待ってよ」
 別に都都に用などないのだが、菱谷君とサシで話をするのも若干怖い。いや、気まずい。
 音楽室を出た都都はもはや笑いを隠す気もないのか、なにも入っていない鞄を振り回して、歩幅も若干スキップ混じり。おいおいなんだなんだ、菱谷君の話はそんなにインタレスティングな代物なんだろうか。
 振り返ると、当然のように菱谷君が居た。当たり前だ。
「……」
 なんか言えよ。
「なんか言えよ」
 おっと口に出てしまった。
 都都の居なくなったピアノの前に座って、黒鍵だけを人差し指で弾いている菱谷君は、とてもインタレスティングでファニーな話をしそうには見えない。弾いているのは笑点のテーマで、菱谷君の真面目な表情とのギャップは確かにギャグだ。
「あぁ……」
 生返事をして、口ごもったきりうつむいて何も言わない。
 また天使が通り過ぎる。どうも菱谷君といるとこう会話が弾まない状況が多い気がするが、もともと男子と女子でサシで話して会話が弾むわけもなく、そもそも私は都以外の女子とだってまともに話せない自信があるぞ。あ、青木さんは別だ。
「確か、お前もピアノ弾けるんだよな」
 天使がモンゴル軍のように大挙して通り過ぎた後、意を決したかのように顔を上げてこちらをじっと見つめてくる。軽くたじろぐ。前髪の間から普段は見えない目が見える。
「えぇ、まぁ……。弾けた、の方が正しい表現かもしれないけど」
「弾いてみてくれないか」
 予想外の言葉の連続に、思わず目を瞑って、何も聞かなかったことにしようかと思う。もちろん断ろうとした。
 そんな用で呼んだの? とも言おうとした。だが、菱谷君が譲ってくれた席に、私は半分くらい何も考えずに座ってしまう。流されやすいタイプなの、とはビッチのよく使う言葉であったか。
 曲は何にしようか。いや、考えるのはそんなことじゃない。
 でも、演奏するとなるとやはり聞き手のことを考えてしまう。楽しませたいと思う。こいつはどんな曲を喜んで聞くんだろうかと思う。
「ご要望はある?」
「ない」
 存外に即答。ないのか。なら、私が自由に選んでもいいだろう。幸い、都都も居ない。始めて都都が席を外してくれたことに感謝した。アイツが居たら、いくらこうして弾く理由を与えられても弾くことはなかっただろう。
 ピアノの88鍵を見る。広いなぁ。挫けそうになる。鍵盤に指をおいて、ぼんやりと自分のレパートリーを探す。探してしまう。
 考えた末、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」にすることにした。流石にブランクがひどいので、簡単な曲を、そして、私が好きな曲を。
 指慣らしはせず、いきなり曲に入る。弾けるかな。大丈夫だよね。
 自分の指先がちょっと震えていることに気づいた。脆いな。揉み手をして、誤魔化す。ストレッチをしているようにも見えるだろうか?
 左手がGの鍵盤を押した。もう後には戻れない気がした。たかがピアノを弾いているだけなのに。鍵盤が押し返してくる。
 一年以上のブランクは、ほとんど感じなかった。確かに以前のようには弾けないが、先生に言われたあれこれとか、自分で本を読んで調べた解釈とかがすべて抜け落ちていたのも効いたのかもしれない。最近はクラシックのCDもぜんぜん聞かないな。だから今、私が誰の真似をしてピアノを弾いているのか、私には全然分からない。
 細かいミスを連発する。前ほど気にはならなかった。
 途中から少しアレンジを加えてみた。ブレイクを入れ、アゴーギクを大げさにつけ、左手はアルペジオ。ペダルも調子に乗って踏みまくる。ちょっと安っぽいが、まぁ素人が聞く分には壮大に思えるだろう。以前の私なら絶対やらなかった遊びだ。
 そのとき、私は口元が緩んでいることに気づいた。
 楽しい。
 リタルダンドで曲が終わる。
「……俺もあまり音楽のことは詳しくないけど、上手いな」
 ピアノに肘を付いて聞いていた菱谷君が感想を述べる。
「言われて悪い気はしないわね」
 悪い気はしないが、いい気もしない。あんなおためごかしアレンジで、素人に評価されて、それをよしとしていいのだろうか?
 にしても、なんで私息が上がってるんだろう。
「他にもないのか?」
 期待とも賞賛とも侮蔑ともつかない無表情で次の演奏を促してくる。
「弾いていいの?」
 耳にかかった髪を払って、そういうことなら、と私は自由に鍵盤を叩き始めた。それはラモーの「一つ目の巨人」だったかもしれないし、ショパンも弾いたかもしれない。よくは覚えていない。印象派は弾かなかった。
 たまにはこういうのもいいだろう。菱谷君が私に何かを話したいらしいということも忘れて、私は久しぶりのピアノを楽しんでいた。
 ミスも多かったし、譜面を一部忘れて、適当にごまかした部分もあった。こんな演奏は、都都のものとは比較にならない。だからこそ、気楽だ。
 何曲目だったろうか、プロコフィエフなんかを選曲したために、左腕がいい加減に疲れてきた時だった。これまでずっと黙って聴いていた菱谷君が独り言と普通の会話の中間の様子で語りだす。
「俺はさ、実はお前が出てたあの演奏会聴きに行ってたんだよ」
 正確には私と都都が出ていた演奏会だ。
 あの演奏会を聴きに行ったというのなら、私がピアノを弾けることを知っていたとしても不自然ではないな。
「でさ、一人やけに上手いな、と思うのが居て、会場で売ってたCDも買ったんだ。それで、トラック5だけ何度も何度も繰り返して聴いた。こんな風にピアノを弾くのは誰なんだろうと思った」
 あのCDのトラック5は確か……。
「お前だよ。今年、クラス分けされた名簿を見て、お前の名前を見つけたときの俺の気持ちが分かるか? あぁ、なんだこの学校にいたんだ、やっと見つけたって」
 あぁ、私の演奏なんかより、もっと聴くべき演奏はたくさんあるだろうに。
 嫌な予感がする。早く話題を逸らすべきだ。自意識過剰か? そんなことを考えて指がもつれる。
 そして、菱谷君は、決定的な一言を言おうとする。
「この半年近く、ずっと見てきた。島村、好」
 ……先を言われる前に、私はピアノの鍵盤をデタラメに叩きつけた。不協和音どころか、2オクターブ3オクターブの音がすべて鳴らされる。
 菱谷君が肩を強張らせて怯む。
 私は鞄をひっつかんで逃げ出した。振り向かないし振り向けない。