ユンデフレミング

7.-馬の話-


 ぶっちゃけて言うと、十月の第二週目、その演奏会がある日になると、それまでのことは殆ど意識に残っていなかった。それはまぁ、思いだそうと思えば思い出せるが、常に頭の片隅で考えるほど重要だとも思っていなかったらしい。中学生は中学生でそれなりに忙しいのだ。具体的に何をしていたかと訊かれると自分でもよく分からないが、こういったもやっとした時間を世間では平均して総称して青春と呼ぶらしい。嘘です。
 あの水曜日の幽霊は、十月の一週目にもちゃっかり現れていたらしいが、誰が犯人なのか、ことさら考えようとは思わなかった。自分の関わっていない謎にわざわざ首を突っ込んでいくのを総称して馬鹿と呼ぶらしい。今度は嘘ではない。犬も歩けば藪をつついて棒を出す。とんでもなく字余り。
 で、そんなことだから、その日に青木さんから「今日の夕方からだったね」などと言われたときには、おもわず「ハァ?」と聞き返していた。
「困るなぁ、君から言い出したんじゃないか、このコンサートに青木さんと是非とも一緒に行きたいって」
「あ。……そりゃ忘れてたのはごめんだけど、青木さんと是非とも行きたいとは一度も言ってない! 確か私の記憶によれば、女子中学生好きのロリコンが私たち二人を無理矢理話しの流れで言いくるめて連れていくとかそんな感じだったと思うけど」
「今の今まで忘れてた記憶力でよくもいけしゃあしゃあと。……ほら、都都ちゃんはしっかり覚えてたみたいだよ」
 入店の鈴の音をならしながら都都が颯爽と入ってくる。髪の毛に金色の毛が付いているのは、うちの店先の犬と遊んでから入ってきたんだろう。ラブラドールの換毛期とはいえどんな遊び方をしたらそこまでがっつり毛がつくんだ。
「あーもう都都制服までそんなに汚してどうすんのよー!」
「流石にこの服のまま演奏会に行こうとかは考えちゃいないわよ。もちろん、青木さんが途中で服を買ってくれるのよね」
「えっ」
 大げさに驚いて見せる青木さん。
「だって、この前作ってた電波ソング、結構お金になったみたいじゃない。真紀の前では泣き落としか何か知らないけれど、過小に見積もってたみたいだけど」
 青木さんが、大げさな身振りで反論する。
「君は、大人の金銭感覚を知らないからそんなことが言えるんだ! いいかい、どんなに狭いアパートでも家賃って行うのは毎月毎月引き落とされる。水道電気ガス新聞NHKこれはもう最悪のパッシブスキルといってもいい。いや、むしろこれは自然回復しない毒状態やけど状態といってもいい。それなのに僕の収入ときたら、たべのこしの回復量にも満たないと言っても過言じゃないんだぞ」
「NHKはきちんと払ってるんだ……」
 ちょっとだけ見直した。というか、もしかしてうちの喫茶店に入り浸っているのは電気ガス水道の節約か。
「大丈夫大丈夫、破産したら私が養って上げるから。青木さん一人くらいなら私でも十分に飼い殺してあげられるわ」
「年下に飼い殺しにされる自称音楽クリエイター……」
「俗に言うヒモね」
 都都楽しそうだなぁ。
「あ、そうだ。真紀もどうせなら服買って貰ったらどうなのよ。誕生日近くなかったっけ」
 唐突に私にも話を振られる。誕生日?
「まぁ、今月末ね」
「決まりね」
 何が決まったって言うんだ。
「青木さん、本当にお金大丈夫なの?」
 一応心配して訊く。何と言っても、もし破産されて都都のヒモにでもなったら、うちの喫茶店は青木さんなしでどうやって営業していけばいいんだ。
「いや……大丈夫、たぶん……」
 私はともかく、都都は普段からいい服着てるだけに容赦なく選びそうだけど。
 まぁでも、人にプレゼントされるときに値段を気にするのも無粋も無粋、野暮天って奴だろう。
「さぁ、そうと決まったら早く出ましょう。私の買い物は長いわよ」
 都都はご機嫌そうに薄くて中身の入ってなさそうな学校指定の鞄を振り回す。

 青木さんは馬鹿なので、どうも金を使うこと自体に喜びを感じるたちの人間であるらしく、買い物を始めると実に楽しそうに散財を始めた。終いには都都に「これもどうだい」などと薦める始末。いやアンタ、そんなドレス買っても絶対今日以外使い道ないじゃん。
 電車に乗って、都心の大きな街へと出ていく。中学生二人を連れて青木さんはどのように見られてるんだろうか。親戚とかかな。
 幸い、都都がどこから仕入れてくるのか謎な情報網で、「比較的良心的な値段で可愛い服、使い回しの効く服」を扱う店を多く知っていたので、そんなに青木さんの懐事情は心配しなくて良さそう。それより困ったのが、都都である。奴は、どうしても私の誕生日に何かを買い与えて優越感に浸りたいらしく(自分で言ってた)、私のメガネフレームを買ってやろうだのと言い出したのだ。
「大体ね、今時コンタクトもせずに眼鏡をかけようだなんていったらね、それはお洒落眼鏡であって然るべきなのよ。真紀みたいに黒縁の眼鏡がありきたりな属性としてもてはやされる時代は終わったの!」うんぬんかんぬん。だってコンタクト目に入れるの怖いし。
 メガネスーパーとか、メガネドラックとかそういうんじゃない、○○眼鏡店とかいうどう見てもリーズナブルな値段で庶民向けに眼鏡を作っているようには見えない店に怖じ気付きもせずに入り、あれこれとフレームを私でとっかえひっかえすると、さっさと作ってしまった。レンズを交換しないので、ものの十数分で付け換えは終わってしまった。怖いので値段は見てないが、ブランド名を見る限り、とても青木さんが今日私たち二人に買い与えた金額なんて目じゃないお値段がしそうだ。愛が重い。赤い細身のアンダーリムフレームだった。派手すぎて私には似合ってないんじゃないかとさんざ抗議したが聞き入れられない。
 買い物を終えた私たちは、頭から足まで装いを変えて(靴も買わせた)、コンサートホールに入っていく。知らない土地の知らないコンサートホールだが、名前を聞いたことくらいはある。流石に大きかった。
「でかいね」
「でかいわね」
 都都はこれだけの規模のホールに着たことがあってもよさそうなものだが、そうでもないらしい。
 青木さんだけが迷わずにどんどんと赤い絨毯を進んで行く。はぐれても困る。
「あ、パンフレットは結構です」
 え、なんで断っちゃうのよ。と思いつつも、青木さんに連れられてきている(少なくとも立ち位置がそんな感じになっている)私たちもなんとなくもらいそびれる。どちらかと言えば、私は開演前にパンフレットの曲目を見てあーだこーだ言うのが楽しみな人なのに。
 チケットをもぎられるが、そういえばこのチケットだって私が水島先生に無理言ってわけの分からん作曲家の為に、余分に一枚貰ってきたものだ。青木さんはたまにうちの学校の吹奏楽部も指導してるみたいだからそこまでわけわかんないわけでもないけど。
 客席に腰を落ち着ける。別に大きなホールだからといって座り心地がいいわけではないらしい。一階席の真ん中あたり、音響的には一番いい席を確保できたのだろうか?
 やっぱり、コンサートというのは気分が上がる。行くまでは確かに、多少面倒だと思うこともあったりなかったりするが、いやだって家のCD探せばたいていの曲はあるし、でもやっぱりコンサートっていうのは違うのだ。生で聴かなきゃ伝わらないものが絶対にある。電気信号で音楽を伝えられるわけなんてない。
 私が音楽についてぐだぐだと脳内で管を巻いていると、「君たち、そういえば僕とデートしに来たわけじゃないっていうのは分かってるよね」
 足を踏んづけてやろうかと思った。
「デートだったら二人きりでお誘いしますわ。もちろん、これから面白いものが見られるんですよね、覚えてるわ」
 都都が新品の服の裾を忙しく触りながら言う。
「うん。まぁそれならいい。ところで、君たちの先生は残念だったね」
 水島先生のことだろう。
「そうね……。このコンサートだって出たい人が出られる、ってわけでもないし」
 でも上手さだけでいったら都都の方が上じゃないかな……。
「そうでもないわよ? 先生もすばらしいピアニストなんだから」
 これを都都の謙虚と取るか、「も」という助詞に注目して不遜驕肆ととるか。
 1ベルが鳴った。もうすぐ開演だ。
 私たちは姿勢を正して、誰からともなく黙り込んだ。この辺、学校行事でコンサートを聴きに行くのとは違って非常に好ましい。コンサートは演奏者側だけじゃなく、聴く側も合わせて音楽になるのだ、という言葉を私は割と信奉している。
 
 ……。この演奏会は、二部構成で、第一部が音大学生による比較的自由な部らしかった。ピアノ四台八手四重奏とか実際に見るのは初めてだ。どうも、司会の言うことを聞いていると、自作自演のものがメインらしい。
「で、青木さんは別にこれを見せたかったわけじゃないのよね?」
 一部と二部の間に、一五分の休憩が入る。客席がざわざわし始めるのに合わせて、都都が青木さんに疑問の言葉を投げかける。
「あぁ。もちろん。僕の予想が合っていれば、二部だね。ところで君たち、今水島先生は右手を怪我しているとのことだけど、左手だけだと何が出来るかな」
「え? えーっと、たとえば……」
 都都が真面目に考え込む。
「ジェンガ出来るよジェンガ」
 私が何も考えずに返すのを、苦々しい表情で返事に代える青木さん。
「水島先生ってサウスポーだっけ」
「知らない。あとアレだね。骨折者が二人いればチームスタックも出来る」
「何よそれ」
「二人が片手づつを使って、カップスタックやんの」
 へー、そんな競技あるんだ、と感心しきりの都都。
「僕がそういう話をしようって言うんじゃないのは分かってるくせに、どうしてそう君たちは……」
 青木さんが泣きそうな顔をする。都都が青木さんを何かに付け弄りたくなる気持ちが分かってきたような気がした。
「あ、ほら、もう2ベルなったよ。静かにしないと」

 第二部が始まった。いや、私もバカじゃないんで、青木さんが私たちに何を見せようっていうのかは考えていた。順当に考えると、毎週水曜日に現れていた幽霊の正体が見られるってことなんだろうが、肝心の第一容疑者水島先生は右手の指を骨折中、鍵を持っている人間はその水島先生ということで、結局準備室の謎と同じようなトリックなんじゃないかな、とはアタリをつけている。だからこそ、このコンサートで青木さんが何を見せようというのか。楽しみではある。
 ところが、である。最初に下手袖から出てきた人物を見て、私は目を疑った。
「うへぇ!?」
 都都なんかは驚いて、もう開演していると言うのに間抜けな声をあげる。
 無理もない、姿を現したのは水島先生だったのだ。勿論右手には未だ包帯が巻かれている。治っていたとしても練習期間が足りなくて出れなかっただろうが。
 私達の驚愕にも関わらず先生は一礼すると、ピアノの前に座り、右手を使わず、左手だけで演奏を始めた。十六分音符。演奏開始して十数秒で気が付いた、これは、使なんだ。
「すごい……」
 すっかりうっかり声が漏れているのにも気づいていないらしい都都が感想を漏らす。私も同感だ。これは……すごい。
「分かったかい?」
 隣で青木さんが囁いてくる。表情は見えてないが、ドヤ顔ならぬドヤ声がイラッとくる。えぇぃ演奏中は黙れ。
 その冒頭部分も中間部分も、苦い君たちのグループに話を聞きに行ったときに教えてもらったものと一緒だった。
 それにしてもこの曲、左手しか使われていないというのに、全くそれを感じさせない。注意して聞けば、確かに音域やボイシングから左手だけの演奏だというのは分かるのだが、何も知らずにCDで聴いたら私なんかいとも簡単に騙されるんじゃないかな……。
 古典派の流れに乗りつつも、印象派の流れも汲んでいるなと感じる曲だった。都都はこういうの好きそうだな……。
 三楽章、アレグロだろうか? が終わると都都も私も、惜しみない拍手を送っていた。もちろん青木さんも。

「と、いうわけだ。長々と僕が説明するより、百聞一見新聞一軒だっただろう?」
 興奮冷めやらぬ私たち二人を、青木さんは近所のファミレスに連れ込んだ。連れて行ってくれたと書くべきかもしれないが、代金ワリカンを請求されたのでやはり連れ込まれたと表現するのが正しいように思える。
「まぁ、君たちが気づかないのも無理はない。君たちは両方ともピアノが弾ける人類だからね。どうしてもピアノは両手で弾くもの、っていう固定観念がある。気づかないのも仕方ないことだ」
 海老マカロニグラタンをぐちゃぐちゃとスプーンでいたぶって全然口に入れようとしない都都が不満そうに声を上げる。
「じゃあなんで青木さんは気づいたのよー」
「僕は腐っても作曲家だからね。色々な作曲家、演奏家、作品のことを知っておいて損はない。左手のためのピアノ曲というものは案外多く作られていてね、それは主に第一次世界大戦で腕を失ったピアニストのために作られたものが多いんだけど、もちろん左手の強化のためや、練習用に書かれているものもある。ただし、それを二手用のピアノ曲と比べてみるとどうだろうか? 片手用のピアノ曲はそれだけで両手弾きのものに芸術として劣るのか? たとえば連弾用ピアノ曲の方が普通の両手用の曲に比べて優れている、可能性に溢れていると考えるものは居ないだろう。それと一緒で、片手用だからといってナメてはいけない。散文詩に対して和歌、俳句が可能性として劣ると考えるものは……」
「うるさい」
 長々と講釈されることに耐え切れなくなった私が遮ると、うぐぅ、と押し黙って頼んだサラダを口に詰め込む。
「あの曲は、リパッティの左手のためのソナチネという曲だ。リパッティというのは、演奏者として君たちも知ってるかな?」
 私は知らないが、恐らく持っている音源を漁ればたぶん出てくるのかもしれない。
「ショパンとかモーツァルトを弾く人ね」
 都都が大雑把に述べる。そんなこと言ったらアンタはドビュッシーを弾く人だし私はバッハを弾く人だ。
「まぁ、概ね合っている。演奏家として有名、ということは作曲家としては無名ということだ。傑作を残したわけでも、音楽史に大きく貢献したわけでもない。何度も言うが、君たちが知らないのも仕方ない。だが、別に幽霊話の正体が水島先生だと言うのは、こんな曲を知らなくても明らかだったんだよ」
「なんでよ」
「簡単さ。彼女以外に犯行が不可能だからさ」
 犯行って。
「水島先生は右手の指を骨折したものの、今回のコンサートには出場することを決めた。リパッティの曲の楽譜をいつ手に入れたのか水島先生の詳しいスケジュールとかは知らないが、九月頭に骨折したんじゃ、十月のコンサートに間に合わせようと思ったら特訓が必要だ。そこで、彼女は練習をすることにした。家に帰って弾いていたのかもしれないし、スタジオでも防音室でもあるのかもしれない。だが、水曜日だけは学校に残って練習をしなければいけない事情があった。いや、もしかしたら水曜日以外も学校で練習をしていたのかもしれないが、水曜日にしか苦い君たちが調査に来なかった、というのもあるかもしれない。彼女は、練習中は邪魔されたくないと思って、音楽室に鍵をかけて、放課後、生徒が帰った後に練習を始める。なんにせよ、毎週水曜日にその音が生徒たちに聴かれる羽目になり、それは怪談話として流布される。九月最終週のあの水曜日、先生は事情により早く帰る必要があった、しかし、それに乗じて鍵を借りた都都ちゃんによって、幽霊は途切れることなく出現することになった……」
 だから、水島先生は怪談話のことを聞かれたときに、恥ずかしそうにしていたのか。自分のせいで流れた噂だから。
「あれ、でもそれだったら先生はその話を皆にして、幽霊なんかいないってことを納得させればいいじゃない」
「そうもいかないだろう。右手を骨折している人が、コンサートに出場して左手のための曲を颯爽と弾くだなんて、こんな面白い話のネタばらしを自分でするのももったいない、と思うのは当たり前じゃないかな」
 確かに私たちは相当驚かされたけど。
「でも、先生はてっきり出ないもんだと思ってたから私たちも聞きに行くのやめようかと思ってたし、それはそれで勿体ないんじゃない?」
 どうやらさっきまでグラタンを口に運ばなかったのは猫舌だかららしい、もぞもぞと食べ始めた都都が質問する。
「もし練習が間に合わなくて出場できなかったら悲惨だからね。それに、君たちにも分かるだろう。言ったほうがいいのは分かるけど、言わなくてもいいことだし、気まずいことだから言えない気持ちは」
 ……心当たりがないわけじゃないけど。
「ま、二重密室の謎に比べたら、この話がどうして怪談として流れたかの方が僕は謎だと思うけどね。誰かが水島先生本人に確認したら一発で分かってしまう話だったのに」
 それはそうかもしれないが。そもそも噂話レベルでの流行の仕方だったし、そう不自然なことでもない。
 投げやりにQ.E.Dと付け足して、青木さんは煙草に手を伸ばす。
「禁煙スペース」
 私がパシッとその手を叩くと、舌打ちをして、ケースに煙草を差し戻す青木さん。
 窓から外を見て口を尖らせて拗ねたフリをする。
「ふぅ。さて、これでもう幽霊の話は終わり。特に質問もなにもないね?」
 ……青木さんが今の今まで解決編を引き延ばしたのは、水島先生のためなの? とは訊かないことにしておいた。

「月と星が綺麗ね」
 柄にもなく、ファミレスを出た都都が空を見上げて言う。十月の空は、特段澄んでいるというわけでもない。
「そう? いつもと変わらない気もするけど」
「真紀、ちょっと手出して」
 言われるままに、右手を差し出す。
「この字は何と読むでしょーか」
 手のひらに、指で文字を書かれる。くすぐったくて、変な声が出た。
 書かれた字は、「腥い」だった。……何て読むのかしら。
「月と星関連ということで。さて、何と読むでしょうか?」
 質問を二度繰り返される。
「さっぱり分からないわ。……月と星だから『あかるい』とか?」
「ブー。漢字の部首の月は内臓に関わるって教わらなかった? 正解は、『なまぐさい』でしたー」
 呆れた下らないクイズだった。
 そうそう、下らない話と言えば、キスをする、という表現はおかしいのではないか、という話を都都としたことがある。
 kissというのはそれだけで口づけをするという意味の動詞であって、キスをするというのは、「口づけをすることをする」とでも言うべき表現になってしまい、これでは馬から落馬、馬に騎乗、馬の馬糞などの重複表現と同じではないか、しかしながら外来語を日本語のボキャブラリーに取り入れようとする人間たちにとっては、いくら私たちが声を上げようとも馬耳東風馬の耳に念仏、日本語をぶちこわそうとする連中は馬耳塞で馬に蹴られて死んでしまえというような内容のことを都都に言うと、彼女は一言こう返した。
「馬鹿じゃないの?」
「ウマいこと返したつもりか!」
 ところで、右手のことを馬手、左手のことを弓手というのはご存じのところだと思うが、水島先生は弓手だけでピアノを演奏したということになる。彼女の名前が弓子だというのは、まぁ偶然の一致だろう。
 水島先生は、片手が不自由な状態になっても、ピアノの演奏を捨てなかった。ふつうは、右手の指を骨折したピアニストはわざわざリパッティなんてマイナーな人の譜面を取り寄せてまで、コンサートに出ようとはしない。それを敢えて、居残りの特訓をしてまで出ようとしたのは、ひとえに音楽を演奏することが好きだからに違いない。
 ……そういうの、忘れてたなぁ。
 確かに、「どうせ才能がないなら、やっても無駄だよ」という言葉がないわけではないが、そんなんじゃ人生楽しくない。人の趣味に、ある種の資格とか真剣さを求めるのは日本独自の風習だそうだ。
 平均的日本人である私もどうせまた、ピアノを弾き出したら都都の影に怯えるだろう。でもそれが今更私にとってなんだというのだろう?
 だから私は、足取り軽く、楽しそうに私の前を歩く都都に声をかけるのだ。
「ねぇ都都、前にアンタがさ、私のピアノ聴きたいって言ってくれたじゃない」
 ぐるりとこちらに振り向き、手を後ろ手に回して(重複表現か?)都都が懐疑猜疑曇り懸かりの表情を作る。
「言ったわよ。もしかして、聴かせてくれる気にでもなった?」
 うん、まぁそういえばそうなる? のかな。
「……それよりもね、都都」
 気付かれないように、息を吸った。
「私いま、やりたい連弾の曲があるの」
 しばらくして、都都は私のこの言葉に笑ってくれた。