ユンデフレミング

2.-ドッペルガイスタ-


 日が暮れて午後七時三十分、約束の時間である。日が暮れても灯は落ちず、電灯が校門の前に立ち尽くす私のうすらぼんやりとした影を作る。
「ごめんなさい、待ったかしら?」
 名家のお嬢様らしくない(偏見)カジュアルファッションに身を包んだ都都が影からぬっと現れた。しかしトレンカレギンスとカンカン帽の組み合わせというのはなにが発祥なのだろうか。どこかでみたようなファッションながら、そもそもの立ち居振る舞いが洗練されている都都はそれだけでどんな服でも着こなせるのだから羨ましい。ただ、身長的な問題が。……まぁ私は制服のまま来ちゃったんだけどね。普段と違うところっていったら腕時計だけはめてきている。制服に腕時計ってダサいから嫌なんだけど仕方ない。
「私も今来たところよ」
「なんかデートの待ち合わせの会話みたいね」
「やめてよ、私は百合には興味ないわ」
 ここでなぜかすんっと鼻を鳴らす。なんだ、私の性癖が奴にとって何か影響でも与えるというのか。
「じゃあいいわ、早速侵入しましょう」
 文化祭は先週終わってしまったので、すでに下校延長はされていない。七時にはすべての門が閉められている。
 しかし私は侵入経路なんて知らないぞ。セキュリティ上問題があるというのは苦い君たちが何度も実地検証してくれたから間違いないとは思うが。
「別に校門を乗り越えて入って鍵を開けておいた一階の窓から入るだけよ。特にアドベンチャーは用意してないわ」
 なーんだ。
 その言葉通り、非常に容易に侵入は成った。私は明日にでもこの重大な問題を申告しようと思ったが、一般の生徒が普通に学校生活を送っていて防犯上の不備に気づくというのも無理がある設定だと思ったので、ここはあえての無視が得策なのだろう。一度盗難にでも入られないときちんとした対策には乗り出さないかもしれない。
 靴を脱いで、事前に鍵を開けておいたという窓から入る。上履きを持ってきていないから靴下で歩く羽目になってしまった。別に画鋲もなにも落ちているわけではないだろうが、より直にフローリングの冷たさが足に伝わってくる。まぁ、教室に行けば体育館履きがあるか。
 暗い廊下を二人で歩く。どうも明かりがないと廊下が無限に続いているように思えて、言いようもなく不気味なのは確かだ。こんな時は無駄に敷地面積の広いこの学校の構造が憎らしくなってくる。
 本館と別館をつなぐ渡り廊下に差し掛かるまで、二人の間に会話はなかった。
「じゃじゃーん、探偵七つ道具ー」
 唐突に都都がポシェットを開けて何かを取り出す。
 ほんとにそれ持ってきたのか。
「指をこすると煙が出る紙とか?」
「そんなんじゃないわ。懐中電灯とかストップウォッチとかよ。だいたい今アナタが挙げたのは忍者七つ道具じゃないの」
 味気ないなぁ。
「指でこすると煙が出るヤツと言えばアレ、二枚買って直接カード同士を叩きつけると、すごい勢いで煙が出るらしいわよ。今度やってみようかしら」
「え、っていうかアレまだ売ってるの?」
 ふとそのとき、背後に違和感を感じた。電車内で本を(それもPTAが見たら怒り出しそうなあまり誉められたものではない本を)読んでいると隣に座っているちびっ子がこちらを見つめている、あのときに感じる肩が凝りそうな緊張感である。とっさに振り返るが、誰もいない。 少しだけ背筋が攣った。
「どうしたの?」
「いや、誰かに見られてる気がして」
「ははぁさてはこれから幽霊ピアニストさんの曲を聴きに行こうというアナザー幽霊さんですかな」
 
 私はそう恐がりな性質ではない。ましてや幽霊などは信じていない。再現性がないからだ。むしろホラー番組で心霊写真が出ると不自然に幽霊が真ん中に捉えられているアングルを見ると率先して突っ込みを入れるタイプである。でも、夜の学校で、電気も付けず歩いている状態では少しくらい心細くなったってそうチキンの謗りを受けるほどのものであるとは思わない。 大体夜の学校に忍び込むっていうシチュエーションはほぼ確実に外部からの侵入者が潜伏して、場合によってはそこで人目を忍んで生活しているっていうのがお約束なので、そういった意味でも私が感じた恐怖というのはなんら的外れなものではないだろう。幽霊のようなものより人間が怖いというのは歴史を鑑みるまでもなく明らかである。
 しかしながら、都都のこの余裕はなんなのだろう。確かに昔から世間一般の感性というものをナメてかかる子ではあったが。生きるアンチテーゼ野郎である。女郎か?
 それに不自然なとこもある。
「ねぇ、ところでさっきからケータイをよくいじってるけどどうしたのかしら」
 別に明かり代わりにしているわけでもない。手の指の動きを見る限り、メールか何かを打っているようにも見える。
「え、あ、これ?別に大したことじゃないわ。……お母様と連絡を取っているだけよ」
 この不審な態度をどう取るべきだろうか。私は考えすぎだという方にベットしていた。

 ひたひたと渡り廊下を歩き、音楽室まで来た。
 ほかの学校はどうか知らないが、うちの音楽室の扉は分厚くて重い。おそらく防音のためなんだろうが。当然開けるときには結構な音が出てしまうのだが、自分で出した音にビビってしまう程度には気がまいってるらしかった。うーん、来なかった方がよかったか。
 再生速度を三分の一位に落とした猿の鳴き声のような音を立てて扉を開ける。
 ここで、少しだけ音楽室の間取りを説明しておこう。
 別館は三階まであるのだが、音楽室は三階の一番隅にある。廊下の突き当たりに今私たちが入っていった音楽室があり(私と都都が溜まり場のように使用している教室でもある)、突き当たりの左手が音楽科教員室だ。
 音楽室の中は、さらに細かく部屋が分かれていて、ティンパニ部屋(通称。ティンパニが安置されていることからの命名)や吹奏楽部員が使っていた譜面部屋や、旧吹奏楽部室もここにある。吹奏楽部は今は本館の方の音楽室に活動の拠点を移しているから、私たちも安心して使えるという訳なのだが。ちなみに、授業では中学一、二年生は本館、3年生は別館の音楽室を使用することになっている。合奏合唱メインの一、二年の時は音響のよりよい本館を使って、理論がメインとなる三年次には比較的音響の悪い別館を使うという理屈である。高校生になると選択式になって一年のときしか授業が開かれないことが多いのだが、やはり別館を使う。
 ティンパニ部屋にはブレーカーやエアコンの操作パネルがある。のだが、エアコンは壊れていて操作不可能。直せ。
 これらの小部屋の大きさはそれぞれ一坪あるかどうかといったところ。それぞれ内側から鍵をかけられる。旧吹奏楽部室はそれより広くて、六畳と言ったところか。まぁ部室といっても、個人の楽器置きや楽譜置きみたいなスペースだったらしい。音楽室自体は大体三〇畳やそこらか。一般的な教室よりも少し横に長い。
「そろそろ八時だね」
 私たちが音楽室の扉を開け、中に入ったとき、私が小学四年生の頃に買ってもらった得体の知れない子供向けブランドの革の腕時計は七時五十五分を示していた。こんななりでも電波時計らしいが、いまどき携帯のメールを確認できる腕時計があるくらいだから別段驚くことでもないだろう。人間を一瞬で眠らせる麻酔針を射出する腕時計だってあるしね。
「そうね、そろそろ来てもおかしくない頃だとは思うんだけど……」
 そういいながらもケータイをいじる都都。ええいお前は幽霊に興味がないのか。私だけ一人で空回ってるような気がして恥ずかしくなってきた。
「そういえば、真紀はこの学校に伝わる七不思議を知ってるかしら」
 えっこのタイミングでそういう。あ、真紀ってのはまだ紹介してなかったけど何を隠そう私のことである。紹介するタイミングを逸していた。
「私も貴女から幽霊話を聞くまでは興味なかったんだけどね、オカ部に行って聞いてきたらやっぱりあったのよ、七不思議。どこの学校にもやっぱりあるものよね」
 心なし楽しそうに、どう見ても怪談話をする人間のものとは思えない表情で都が語りだす。
 今その話しないとダメなのか。
「まず一つ目、今昆布(コンピューター部のことだ)が使ってるあの部屋にね、満月から三日後になると、首吊り自殺をしている亡霊のが現れる」
「二つ目、校長室の女の絵が泣く」
 普段なら絶対にこの程度の話で私が恐怖を感じることはないというか、むしろ語り手の頭の心配をするだろう。というか、都都の語り口だとほとんどギャグだ。だが、夜の音楽室で響くのは都都の声だけ、滝廉太郎もヘンデルもバッハもシュトラウスもベートーベンも、私を冷たい目で見下ろしてるような気がしてきて、音楽室の壁にあいている防音用の細かい穴からも無数の目がこちらをのぞき込んでいるような、そんな中でこんな話を聞かされたらたまったもんじゃない。
 都都の怪談話は、ときに細かい設定付きで、ときに投げやりなワンフレーズのみで進んでいく。むらっ気のある怪談話だなぁ。
「七つ目、水曜日の夜、旧校舎のピアノが独りでにショパンを奏」
 そのときだった。予兆はなかった。
 スフォルツァンド、オクターブで低音のG♯、ショパン作品番号66番嬰ハ短調。俗に言えば、幻想即興曲。なんの前触れもなくそれはこぼれ落ちた。
「ヒイィッ」
「きゃー」
 それぞれ私、都都が挙げた悲鳴。くそぅ、温度に差があるぞ。
 心臓は恥ずかしながら、さながらヘタクソのドラマーが古雑誌を叩きながら練習する16ビートのように心悸亢進していたが、腰が抜けなかったのはこれ幸い、すぐに調べないと苦い君たちと同レベルである。
 手元の腕時計を見ると、午後八時を十数秒回っている。ん……、おかしいな。
 気を持ち直して、音源の方に接近していく。近づくにつれ、さらにおかしいことが増えた。余りに音が「生」ではない。音の広がり方がおかしい。それにこの演奏は聞いたことがあるものだ。というか都都のCDに入ってる演奏じゃねーかコレ。
「あっ」
 私は開けられたピアノ蓋の下、張られた弦の上に小さなレコーダーを発見した。

「いやー単純な話でしたねー」
 単純にもほどがある。解説するのもバカらしいが、見えにくい場所にレコーダーが隠されていただけの話である。あぁ下らなかった。
 そもそも八時ちょうどに演奏が始まったのが不自然だと思った。やたら時間に正確なお化けさんだ。レコーダーには時計の針と細い糸を使った簡単な時限装置が仕掛けられていた。
 それにしてもなぜ苦い君たちはこんなことに気づかなかったんだろう。素人だから生演奏との違いは気づかなかったとしても、こんなお粗末な隠し方じゃ探せば一発でわかってしまう。腑に落ちないな。
「下らない話だったわねー」
 都都が私の後ろからピアノの中をのぞき込んで、レコーダーを携帯のライトで照らす。お前懐中電灯持ってきてなかったっけ。そういえば部屋の電気を付けてなかったが、付けたせいで足が付くのも嫌だな。
「こんなとこに物を置いといたら弦が痛んじゃうじゃないの。許しがたいわね」
 ひょいっとレコーダーをつまみ出すと私に手渡してくる。
「そういえばさっきのは私の演奏だったわね。あの演奏は結構失敗したヤツだからあんまり流さないで欲しいんだけど」
 都都は一度県内の大きな学生コンサートに参加したときにCDが作られているのだ。もちろんほかの参加者の演奏も合わせたコンピレーションアルバムみたいなものだが。どちらかといえば参加者の保護者向けに作られたようなCDだけど、別に一般の人が買えないわけではなかった。これだけでは犯人を特定する糸口にはならないだろう。
「今ならもうちょい上手に弾けるんだけどなー」
 そういって椅子に座るとおもむろに鍵盤に触れる。二つのアラベスク第一番。ホ長調でありながらAの和音で唐突に始まる。
 都都は実は結構な印象派好き。ドビュッシーやラヴェルを弾くのが楽しくて仕方がないらしい。「水彩画を描いてるみたい」とは都都の談だが、私にはその詩的ニュアンスを理解できず、せいぜい「だったら実際に絵を描いたらいいじゃん」としか言えない。どちらかというとバロックが好きな私とは趣味が合わないようだ。バロックのぎこちない素材で勝負みたいな趣と、なんといってもチェンバロの響きにやられたクチである。まぁ、どちらも大作好みではないという点では一致するかもしれない。
「大丈夫? ピアノなんか弾いてたらこんな時間にここに居るのがバレない?」
「むしろ毎週水曜日にピアノを弾いていた幽霊が突然居なくなる方が不自然じゃない?」
 なるほど、それも一理ある。
 にしてもあっさり片づいたな。これならまだ枯れ尾花の方が怖いわよ。
 都都の演奏がアラベスクの二番に移る。跳ねるような装飾音符と緩急のコントラストが鮮やかな曲だ。
「あれ、都都今音間違えなかった?」
「間違えてないわよー? 装飾音符の話かしら」
 いや、そんなことではない、明らかに不協和音が……。
 違う、都都が間違えたんじゃない、他の誰かの音が混ざっている。
「都都、演奏やめて!」
 ……、静かになった教室に流れるのは、今都都が弾いていたのと同じ、アラベスク、第二番だった。
「あら、幽霊さんもドビュッシーがお好きなのかしら」
「暢気なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
 どこから音が鳴っているのか探さないといけない。
 男性の脳はどこから音が来るのかをよく判断し、女性の脳は音が鳴っているかどうか自体を判断するのが得意だという。その意味では、私は女性脳だったし、都都は男性脳だっただろう。
「こっちじゃない? 音楽科教員室の方だわ」
「いやよ、こういうのは貴女のしごと」
 いつ決まった! 「しごと」の部分に妙なディレイをかけて発音する都都の態度に悪意すら感じる。
 しょうがないので都都の手をひっつかんで連れていく。付いてきて貰ってるわけじゃない。断じて。
 近づくにつれ、音はより大きく、はっきり聞こえてくる。
「レコーダーの音質じゃないわね。誰か本当に弾いてるのかしら?」
 冗談じゃないわ!
 ついに準備室の前まで来てしまった。……確かに、さっきみたいなレコーダーの音質ではない。中に誰か、居る。
 がちゃがちゃと都都がドアノブを回す。
「あちゃー鍵閉まってるわねコレ」
「ちょっと、あんまり大きな音立てないでよ」
 幽霊に気づかれるかもしれないじゃない。
「まぁ私今日水島先生から鍵借りてるんだけどね」
 借りてた譜面返そうと思ったのに先生ったら帰り際でね、鍵だけ渡して準備室に戻しといてって言ったのよ、と続いた。じゃらじゃらとリングで繋がれたたくさんの鍵の中から、目当てのものを探し出す。水島先生は音楽科では唯一の常勤の教師なので、帰るのは常に最後だから、都都は今日の放課後、いつまでピアノを弾いていたんだろう。やはりもう少し監視の目を強めてやらないといけないか。
「というか、これも私が閉めたんだし」
 水島先生も余計なことをしやがる。というか都都だよ問題は。いくらなんでもタイミングが悪すぎた。都都が鍵をスカートから取り出して止める間もなく鍵穴に差し込む。誰かこいつに恐怖心を返してやれ!
「えいっ」
 かちゃっ。
 声にならない悲鳴を上げる私。いや、ごめん嘘。声出てた。めっちゃ出てた。
 音楽室の扉と違って薄くて軽い扉を開けるとその中には……。
 ……あれ?
 都都が鍵を開けるのとほぼ同時に、ピアノの音は突然消えてなくなってしまった。

「……蒸発しちゃったのかしら?」
 私より一足先に教員室に入った都都が不思議そうにつぶやく。
 鍵盤の蓋は開いてるし、椅子は引いてあるし、確かに誰かが弾いていたと考えるより他ない。大体、今回も何かの再生機器を使っていたとしたなら、私たちが入ってきたとたんに再生が止むなんてことはないだろう。
 手に持っていた懐中電灯であちこちを照らす。汚い準備室は、いくらでも隠れる場所にはことかかないように思えたが、実際人が一人隠れられるスペースというのはなかなかないように思われた。
 見回して誰もいない上に、息づかいも聞こえない。それに、音が鳴りやんでから隠れたのではどう考えても間に合わないタイミングだ。時間がなさ過ぎる。
 軽く鍵盤に触れた。
「冷たい……」
 やっぱり、体温のない幽霊の仕業なんじゃないだろうか、そんな考えが私の頭の中を占めていく。
 一応、と思って、準備室にある立派なオーディオ(なんでも、予算をやりくりしてようやく買ったとかいう七桁もののオーディオらしく、いつもは冷静な水島先生が授業中に暑苦しく語るのを聞かされた)のことを思い出すが、やはり鍵付きの掃除用具入れみたいなもの(としか表現のしようがない)に入れられたままだった。その中は狭く、とてもじゃないが、音楽室にあったレコーダーに仕掛けられていたような時限装置を仕掛けられるとは思えなかった。無指向型とか言っていたこれまた立派なスピーカーはオーディオと配線のつながったまま外に出ているのだが、肝心のオーディオが中に仕舞われているのでこれでは直接操作もリモコン操作も叶わないだろう。だいたい、このオーディオを操作した人間が居たとして、この狭い部屋、どこに隠れるというのか。
 そんなとき、背後に気配を感じた。まさか、と思って振り返る。
 その人影に、私は本日何度目ともつかぬ悲鳴を上げた。キャラが崩壊しちゃうよ。

「なんだよ、人をお化けか何かみたいに!」
 結局、人影の正体は菱谷君だった。
「謝ってるじゃないー」
 都都はそういうが、私は許しちゃいないぞ。私にあれだけ下品な悲鳴を上げさせておいて、逆ギレとは許し難い。
「だいたいなんでアンタがここに居んのよ。まさかアレ? 朝の会話真に受けてストーカーしちゃったタイプ?」
「真に受けるも何もお前たち実際来てるじゃないか!」
 そういわれると実際私も、都都の口車に乗せられてここまで来てしまったという感はあったので、強くは言い返せない。
 話によれば、塾に行く道すがら、音楽室からピアノの音が流れているのを聞いて、もしやと思って侵入してきたそうである。やっぱりあのとき都都を止めていればよかった。やっぱりストーカーじゃねーか。
「で、結局無事だったの? ならいいけど……」
 そこで拍子抜けみたいな顔しないでよ。
 それにお前の目当てはどうせ都都だろうが。見え透いていてどうにも素直に様子を見に来てくれたことを喜べない。いや、それでも苦い君たちに比べたらよっぽどマシなような気はするけど……。って、騙されかけてる。
「はぁ……、まぁいいわ。アンタが下世話なストーカー行為を働いたことはこの際水に流してあげる」
「とかなんとか言っちゃってホントは安心してるんじゃないのー」
 都都は黙ってなさい。
「それよりも、あんたの横を誰か通っていかなかった?」
「いや、誰も見てないが……」
 嫌な沈黙が流れる。フランスのことわざでは天使が通るとか言うらしいが、日本じゃせいぜいハイカラさんくらいしか通らない。
 どことなく手持ちぶさたになってしまった私たちは、気まずさも相まってせこせこと後かたづけを始めた。とはいっても、鍵盤の蓋を閉じたりレコーダーを回収しただけだが。レコーダーの処分は結局菱谷君が受け持つことになった。
 とはいっても、ものの数分もせずにあらかた作業を終えてしまった私たちは、なんとはなしにピアノの周りに集まっていた。都都がピアノ椅子に座っていて、私がその後ろに立っている。
 こうしていると、今し方まで幽霊騒ぎにあっていたとは思えない。
「でさぁ」
 ピアノ蓋に手を付き、被った埃を指でなぞって文字を書きながら菱谷君が口を開く。
「君たちはここに調査しに来たわけでしょ? なにか分かったの?」
 う、それを言われると。
「トリック……というにもお粗末だけど、一応タネは貴方も見たように安っぽい時限装置よ。誰がやったかは分からないわ」
 都都はブルグミュラーをピアニッシモで適当に弾き流しながら答える。
 私が一応補足として、流れていたCDが都都のものであったこと、コンサートの会場での限定の受付だったから、ある程度絞り込むことは不可能とは言い切れないことを付け足した。
「ふぅん……。それで、準備室の方は?」
「それがさっぱり分からないのよね。苦い君たちに聞いた話にはもちろんそんな部分は含まれていなかったし」
 またも都都が受け答える。
「本当に、幽霊かもね」
「そういえばこんな話知ってるか? 水島先生って今でも演奏活動続けてて、来月の東京都のちょっと大きな演奏会……誰か指揮者の名前が付いてたような気がしたが名前はちょっと忘れた。とにかく、それに出る予定だったらしいんだが、今月頭、右手の指を骨折して出られなくなったって話」
 有名な話、というか音楽室に入り浸る私たちが知らなかったらおかしい話だが、唐突にそんな話をしてどういう意図が。
「だから、水島先生の生き霊が準備室に恨み心髄現れたんじゃないかっていう意味だよ」
 私は苦虫を噛み潰したような音を喉から出して、目の前の都都の背中に抱きついた。そのとき弾いていたパストラルが不格好に不協和音で途切れる。
 ええぃ、私は帰るぞ!

 話題も尽き、なんといっても怖がった私が早々の帰宅を強く希望したため、私たちは流石に音楽室を引き上げることにした。もうこれ以上何か出てこられても困る。もちろん先頭は菱谷君だ。
 幸い、もう何も出ることはなかった。
 こうして、どこか盛り上がりに欠ける幽霊体験は幕を閉じた。叫んだ記憶しか残ってないぞ。