うそつき



「それでは、12月24日午後10時からのあなたの行動を教えていただけますか」
「つまりあなたは昨日一歩も自宅から外には出ていない、そうおっしゃりたいのですね」
「嘘をつけ!」
「恥を知れ! 異教徒の手先め!」
「貴様がラストクリスマスイブにサンタ行為を行っていたのは明らかだぞ!」
「住居の不法侵入に加え偽証罪、加えて異教の祭儀をこうも大々的に行いやがって!」
「宗教法治国家を舐めているのか!」
「断罪!」
「断罪!」
「十字架刑!」



 元来少年はキリスト教徒でもなんでもなかった。
 彼はこの国の法律に基づいて「国教」には所属していたが、それでも大多数の人間と同じようにほぼ無宗教の状態であった。
 従来の全知全能ご都合主義型の一神教は科学の前に敗北し、多神教は人々の心に根差すことなく享楽的な世俗のカルチャーに取って代わられた今、皇紀2700年(西暦はキリスト教起源だとして使われなくなった)現在、この国には神と言える存在は一人も名実ともに生き残っていないと思われていた。
 宗教はすでに権威と同義の言葉と化して久しい。当然、現国家首長は「国教」の首長でもある。
 つまり彼の身の回りにはおざなりな態度で日曜日の集会を告げに来る「国教」の司祭以外にはなんら宗教的存在はなかったのである。

 彼は単なるケーキ屋の息子であった。

 それが一変したのはクリスマスイブのことである。
キリスト教に限らず、すべての宗教が弾圧されている現代にあっても、クリスマスイブやバレンタインデー、これら行事はほぼ昔と変わらない状態で行われている。
 これらのイベントによって利益を得ている団体を刺激しないための措置ではあったが、そもこれら行事にこの国民が宗教的感情を抱いていたかどうかは甚だ怪しいものである。政府の取っている積極的黙認政策も、現実的な処置といえた。

 なんのことはない、彼の家も結局クリスマスが稼ぎ時なのである。
 この日、ようやっと終業式が終わり冬休みが始まって間もない彼が戦力として売り子に回されたのも必然のことであった。
 彼もそれはこの数年来続けていることである。売れ残りはケーキ屋の恥であり、資本主義の前に屈した証であり、来年のお年玉の死亡証明書でもある。彼が柄にもなく商用スマイルを見せ、寒い中汗をかきながら犬になりさがっているのも2+2が4であることより至極当然の帰結であった。
 そんな彼は今年も例年通りにこのイベントが終わると思っていたのだ。
 しかし、それは数々の要因で阻まれた。
 一つは彼がこの年、高校に入って初恋をしていたこと、それが片思いで継続中だったこと。
 二つ目は片思いの相手が実は大学生の彼氏が厳然と存在しており、不覚にも少年はその情報をリサーチ不足で掴み損ねていたということ。
 三つ目は運悪く少年が店頭で売り子をやっていた時に、まさにそのカップルが来店したこと。

 午後七時を過ぎたころ、だいぶケーキも捌けてきたところであった。
「いらっしゃいませー……ぇ?」
「あ、嫌だーあんたここで働いてたの? うちのガッコバイト禁止じゃーん」
「いや、僕ここの家の子だしさ。言ってなかったっけ」
「おいこいつ誰だよ。クラスメイト?」
「うんそう。やだたっくんそんな目しないでよ、こいつはただのクラスメイト」
「ごめんってば、そんな顔してた、俺? お詫びに好きなケーキ何個でも選べよ。バイト代お前のために残してあるし」
「きゃーたっくんありがとー! えーっとね……とりあえずイチゴのショートでしょ……」
 アレデショコレデショアレモイイワネ!
 ハハハキニセズナンデモエラベヨ
「……」

 少年は健気であった。彼はあくまでも商業主義の犬として振る舞い、客の前で粗相をするようなことはないよくしつけられて犬であったために、その場ではクラスメイトの恋愛事情を知りえることができた優越感を顔に浮かべながらも平然と接客をしている、という態度を自然に取ることができたのである。
 人間というのは不思議なもので、精神的に追い詰められると逆に超然と冴えわたり、自らの心の内とは違うことをするのは案外容易いものであるらしい。
 しかし、ケーキを箱に詰め、引き渡し、店外へ出るそのカップルを見ていたとき、彼は急に目尻に熱いものがヴェスヴィオの火山のように湧き出してくるのを感じた。おかしいな、この場合熱くなるのははらわただけで十分なはずである。
 彼は持ち場を妹に任せ、腹を壊したふりをして二階のトイレに逃げ込んだ。

 彼は惨めで無様であった。初恋は戦う前から負けだったのである。
 告白して振られたのならまだいい。若い人間には誰しも必要でありがちな痛みである。
 告白せずにその思いを抱えたまま卒業するのだって、それだって戦った結果ではあるのだ。
 しかし今回のはどうだ?
 まるで不戦敗ではないか。自分の思いを告げるまでもない、彼女はすでに別の男の手中に落ちていて、少年はそれを知らなかったピエロである。ピエロだったらまだましだ。笑いものにすらなりはしない。彼はまともな敗者にすらさせてくれない世の中を、ケーキ屋とという職業を、クリスマスを恨んだ。
 少年、トイレの中で心の処女膜を破瓜された思いであった。女々しい自分にはその程度の表現がお似合いだと自己を顧みてそう思った。
 涙はついぞ零れ落ちなかった。彼なりに恋との戦闘を試みた結果である。
 まぁ、戦後処理だがな。彼はあくまで自らの尊厳を保とうとする精神に嫌気がさし、自嘲する。この程度のかっこつけならば許されるであろう。

 そのときであった。
 一階の店舗部と二階の住居が一体になった彼の父親のケーキ屋で、二階隅に位置するトイレは壁一枚を隔てて外界と接している。
 その家と外との隔壁である壁が何者かによって吹き飛ばされたのである。
 人ひとり余裕で通れる大穴である。彼はこのようなことが起こる予定も聞いていないし、彼自身はもちろんこのようなことになるような事をした覚えはなかった。
 大きな音はしたかもしれないし、しなかったのかもしれない。階下から誰も上がってこないことを鑑みると、もしかしたら音は鳴らなかったのかもしれない。外を歩く人間も誰もこちらを見ていないからすると、壁が失われたのかどうかも怪しいところがある。
 しかし、誰にも気づかれていないかのようなこの出来事に、彼と彼以外にもう一人気づいている人物がいた。
 その人物はスーツ姿にサンタ帽を被り、ホンダのシルバーウィングを駆る女性であった。さもそれが当然であるかのように、そのバイクは彼女を乗せて宙に浮いていた。
「へ?」

 ずっと店内に居たから気付いていなかったが、少し雪が降っているらしい。そのせいで音がかき消されたわけではなかろうが……。
 シルバーウィングのエンジン音はそれらに打って変わって彼の耳によく届いた。その重低音はさながらこの状況が現実であることを示唆しているかのようであり、彼は反感を抱いた。
 大体恰好がアナーキーである。
 確かにこの日、クリスマスイブはもはや政府に黙認されたイベントとなっている。
しかしながら、サンタ帽などというのは元をたどれば当然キリスト教の司祭の服であり、それでなくとも正式に列せられているキリスト教徒であるニコラウスを模した格好をするなど、今のこの国では命取り、いやもはや命知らずの阿呆としかいいようがない。
 それをなんだ、こいつは。
 人様の家を勝手にリフォームし、それでいて反政府的な風采、スタイルに不釣り合いなほど大きなバイク。
 ……、カッコいいじゃないか。
「やぁや、君、今しがた片思いしていた憧れの彼女が彼氏を連れてやってきてしかも目の前でいちゃついているのを見せつけられた少年みたいな顔をしているよ」
「……、……」
 言葉はすぐには形にならなかった。しかし、もうこうなったら混乱していても仕方ない。
 彼は覚悟を決めて、聞くべきことをすべて聞いた。
 つまり、彼女の目的、この家に対する損害賠償、その他諸々である。
「単刀直入に言っちゃうとさ、アタシは退役サンタなのサ。で、アンタは今年からサンタクロース。何かの手違いで事前に連絡が行って居なかったみたいだけどまぁ問題ない。どうせ事前に講習なんかないんだし、サンタの仕事なんて簡単さね、ぱぱっと回ってぱぱっと配って終わりさ」
「は?」
「おや、話が伝わらなかったかい? つまり君はこの後子供が寝静まった頃を見計らって夜の街に繰り出し、聖ニコラウスよろしくプレゼントを枕元の靴下にぶち込むのさ。金貨でなくとも構わないし、プレゼントはこちらで用意してある。なに、簡単なお仕事さ」
「え、だから、なんで僕が」
 ちがう、彼が聞きたかったのはそんなことではない。もっと根本的なことなのだ。
「ランダムだよランダム。もちろん不適任者は選ばれないけどね」
 ひどい邂逅もあったものである。

 壁は簡単に修復された。少年には理解しがたいことの連続ではあったが、退役サンタにはこれくらいのことは余裕なのだという。
 それから、彼は彼女に連れられて、近くの公園まで行く羽目になった。もう店などはどうでもよかった。

 少年にもバイクが与えられた。
「え、いや免許なんて持ってませんし乗れませんって。大体バイクで街を回って子供たちにプレゼントを配るだけならわざわざこんな帽子を被らなくたって」
 ただでさえこんな時代なのに、とか、大体僕がなんで、店だってまだ終わっちゃいないのに、とかそういった言葉が口の中で転がる。
 ただ、明確に拒否する気にはなれなかった。どうとでもなれ、である。大体、家の壁を破壊したり修復したりが思いのままになるヤツに逆らったところでそれが彼にとってプラスに働くとはどうしても思えなかった。結局何をどうすればいいのかも分かっていないが、悪いようにならないような確信はしていた。そもそもがどん底な気分だったのである。
「大丈夫大丈夫、初心者でも運転しやすいっていうかコレ操作しないでもいいタイプだから。君の脳波をキャッチンアンドリフレクションだよ! 空も飛べるスグレモノ!」
「やっぱり今からでも逃げ帰ったほうがいいかな……」
「口に出てるよ!」
「しかもこんなキリシタンみたいな格好して、警察に見つかったらまずいしその上他の人に見つかっても超気まずいじゃないですか。大体サンタってトナカイの引くソリに乗ってるもんじゃ」
「おーっと細かいことは気にしない。というわけでその辺のことも含めてお話ししよう。
 君は今年のこの町のサンタクロースに選ばれた。全国サンタクロース協会の正式な決定だ。ちなみに前任は私だ。任期は基本四年あるが、嫌になったらいつでもやめていい」
「今やめます」
「最低一年の服役が原則だ」
「なんですか服役って。用語から嫌なにおいがします! 断固拒否します! 人権は啓蒙君主時代以来市民に認められた権利なんだぞー!」
「そう、用語からも分かるようにこれは義務だ。懲役とほぼ同じと思ってもらってもいい。……まぁ、サンタ服を着る役が短くなっただけなんだが。それで、この町のサンタクロースに選ばれたからには君は本日午後十時をもって町内を回り、プレゼントを配る。全家庭というわけではない。指定されたところだけでいい。この町内だと全部で10箇所にも満たないだろう」
 やはりこの話はどこかおかしい。彼は助けを求めようと周囲を見渡す。
「あぁ、いくら君が叫んだとしても私は今君以外の目に見えていない。そう、見えないようにしているからな。サンタクロースも退役サンタも、クリスマスイブの夜には奇跡が起せる。そうでもないと任務が遂行できない。君も慣れてはいないだろうが奇跡を起せるはずだよ」
 次は奇跡ときた。
 彼はもはや逃れることはできないことを悟った。蜘蛛の網に捕らわれた蝶はもがくよりもじっとしていたほうが美しいのである。
「じゃあ宙に浮いたりとかも?」
「実際さっきも私がやっていたじゃないか。あれはオートバイ自体に空を飛ぶ力があるわけじゃない。サンタの力を使ったものだ。君だってそのバイクに乗っているときに気を抜いて居眠りでもしたら地面にまっさかさまだよ。まぁまずは乗ってごらんよ」
 ホントに空が飛べるんだろうか。少年はバイクに不慣れな足つきでまたがった。
「右手側のグリップを回すんだ。そして、飛ぼうと思え」
 眉唾物の話だ。少年は特に何も考えずに言われた通りにした。
 しかし、次の瞬間予想に反して彼と彼のバイクは宙に浮かび上がっていたのだ。見通しが甘かった。
「ヒィッ!?」
「そうだそれでいい。なかなか上手じゃないか。初めてではなかなかこうはいかない。十時になるまでもう少し練習したまえよ、操縦はどうせ誤ることはない、君の脳波だ」
 
 彼は真面目にしばらく練習していた。どうせやるのなら不備なくさっさと終わらせたほうがいい。それに、この空中散歩は楽しくもあった。上空から見下ろす町の景色は新鮮で、坂ばかりが多く不便だと思っていたこの町もそれなりに美しく見えた。人もゴミのようだった。あくまで練習でありストレス発散というわけではなかったが、彼の中ではあまり明確に区分もされていないだろう。姿は奇跡やらなんやらで消えているらしく、実際に誰も彼に気づきはしなかった。
「あぁ、少年、戻ってきたまえ」
 彼はそのころにはすっかりバイクを手なずけていたので、割合スムーズに彼女と合流する。
「大事なことを言い忘れていた。君は今晩命を狙われている」

 どうやら、この国の政府とこの全国サンタクロース協会は以前なんらかの形でトラブルを起こしたらしく、毎年しつこく狙われているのだそうだ。そもそもこれだけキリスト教色の強い組織は弾圧されて当然であり、まずこのようなサンタ行為を見つかれば逮捕である。
「まぁ判決は死刑が妥当だろう」から命を狙われているといっても何ら過言はないのである。
「そこで、君を国家の犬の魔の手から守るためにサポートで派遣されたのが前任のサンタクロースであるアタシってわけだ。大丈夫、世界を敵に回してでもキミを守るよ!」
「なんですかそれやめてくださいよ気持ち悪い」
「照れてんじゃねーよこっちまで恥ずかしいだろ」
「照れてねーよバカ」
「どちらにしろ、例年サンタの中で逮捕者は一人もいない。全国でだよ? 君だってサンタ初心者だろうけど、あっちからは見えないんだからよほどのことがないと捕まらない。あっちだって真剣だけどいかんせん予算がないからね。人と足の力では我々空を駆けるサンタクロースを捕まえるのには及ばないのサ」
「はぁ…」
 大丈夫なんだろうか本当に。彼にはどこか死亡フラグが建っているように思えてならなかった。

 携帯のディスプレイは午後の10時を示していた。時間である。
「さーそろそろ行こうか。回る順番とかはアタシが知ってるから問題ない」
「その前に一つだけ聞いていいですか?」
「なんだい? 別にこの地区はそんなに時間にシビアじゃないから好きに質問してくれたまえ。あ、彼氏はいるよ」
 いるんだ。
「結局、こうやってサンタの真似事をするのはどうしてなんですか?」
 いろいろと流されて結局聞けていなかったがつまりはこれである。
 金持ちの道楽にしては支離滅裂、おまけに魔法だのなんだのメルヒェンチック、政治的行動ともまるで思えない。
 となれば、
「布教の一環だよ。今じゃすっかり勢力を失っちまったけどね、サンタクロースを信じ込む子供を増やしてそこからキリスト教徒の勢力を拡大するのさ」
「子供の力は偉大だからね、きっといつか私たちがプレゼントを配った子供たちの中からいまの狂った世界に異を唱えるものが出てくる」
「アタシはそれのお手伝いをしているのさ。あくまでも不自然じゃない程度に人々の中にサンタクロースでもなんでもにおいを残しておかないと、そもそもこんな宗教自体がなかったことにされちゃぁ敵わない。控えめに大胆に生き残りをかけた十字軍なんだよこれは」
「……ってことじゃダメかな?」
 予想していた答えとは違ったが、納得できない理由でもない。
 そもそもが宗教者の考え方なんて生まれて一度も触れたことがない、イエズス会の宣教師が東洋の端まで宣教に来るくらいだからサンタが町にプレゼントを配るくらいは至極当然のことであるのだろう。宗教的情熱というのはウン億人を殺してきた業火だ。
「あ、でも僕自身は絶対改宗とかしないんで。今日が終わったら速攻サンタやめるんで」
 苦笑された。
 最初に向かう家は大富豪の家であるらしかった。
 そもそもこの家が大きくなったのはこの一代での出来事らしく、以前までは普通の中流階級に属する家庭だったらしい。それが今の当主になってからベンチャー企業で大当たり、妻はセレブ系のモデルとして雑誌でテレビで大活躍。しかし、そのせいか大富豪の家といっても無闇矢鱈と華美にわたらず、むしろ成功を妬むものの視線を恐れるかのような慎ましさがあった。
 とはいえ、大富豪の家である。でかい。おまけに玄関にはセコムのシールがぺたり。
「で、どうやって中に入るんですか」
 おそらく子供部屋であろう部屋の横にバイクをつけて(子供部屋は二階にあるのでもちろん空中でバイクが静止しているのである)
「まぁ奇跡でちゃちゃっと」
 彼女の言うちゃちゃっと、というのはどうやら窓をお化けよろしくすり抜けることらしかった。彼の中で常識やらなにやらが音を立てて崩壊していく。ベルリンも崩壊するときはこの程度のあっけなさだったに違いない。
 なんだか悪いことをしているような気分になりながら室内に侵入すると、ビンゴ、ちょうど子供部屋であったようだ。
「でもこんな家の子供がキリシタンになってくれますかねぇ……」
「案外こういう家の方が精神的には不安定なものなのよ。そこに付け込むわ」
 パウロだって最初は女子供奴隷相手に宣教していったというのに。
「で、何をあげるんです。現代を生き、拠り所を失い精神的に不安定な子供たちに対してサンタクロースは一体何で報いればいいと言うのです」
「ノリノリ? いやまぁなんだっていいんだけどね。お金持ちの子ならお金で買えるものはあまり喜びそうにもないし……」
 というと彼女はバイクのリアボックスから袋を取り出し、その中を物色する。
「そうね、かの有名選手のサインボールなんてどうかしら」
「この子を野球少年だと仮定したうえでの乱暴な結論ですね。と、いうかどうしてその袋からサインボールが簡単に出てくるんです」
「サンタ袋からはプレゼントっぽいものならなんでも出るわよ」
「そんなものよりですね……」
 この子は多分親にあまり相手にされていない。愛情がないわけではないのだ、しかし、父親も母親も仕事で忙しく、結局いつも買い与えられたもので親の愛情を感じるしかないのだ。
「それじゃあ何をプレゼントすればいいって言うのよぉ」
「将棋盤と駒とかどうでしょう。これなら一人では遊べないし、親からルールを教わって一緒に遊ぶことも出来る。友達を呼んでみたっていいでしょう」
「それだって大分アンタの妄想の入ったこの家の解釈だけど……、まぁどうでもいいか。あんまり時間もかけてられない」
 えっいいの。
「いいのよ別になんだって。アタシ達サンタ的に重要なのはあなたのもとにサンタが来ましたよーサンタクロースハドカムトゥユアタウンですよーってことなんだから」
 まぁ喜んでもらえたらそれに越したことはないけど、彼女はそう言って将棋盤を袋から取り出すと、クリスマスカードと一緒に枕元に置いた。
「しかしよく起きませんねこの子」
「奇跡がよく効いてるからね!」
「っていうかいいんですか、こんな風にサンタクロースが来たみたいなことが分かるようなカードまで置いていって」
「怪盗だって犯行現場に自らの痕跡を残していくでしょうが。大体こんなもの親にばれたところでそこから足がつくことはない」
「いや、というよりキリスト者的には右手の行いを左手に知られちゃいけないんじゃ……」
「こんなもの施しでもなんでもない、死にかけたキリスト教徒のエゴよ」
 はぁ、そんなものなんだろうか。おそらくこうやって神学が複雑怪奇になっていった結果、科学の前に宗教は敗北したに違いない。
「さて、仕事は終わったわ。さっさと逃げましょう。夜は短し空飛べサンタ」
「全然うまくないよ」
 
 空を駆ける忍び込む、冗談を言ってアホみたいなプレゼントを置く。サンタの仕事ってのは意外と楽で、意外と楽しいものらしかった。ある子供にシーランド侯爵位をプレゼントした時などもうふざけてやっているものとしか思えなかったし、実際ふざけている。
「しかしアレですね、さっきの言い方だと追手とかが来るみたいな印象を持ってましたが」
「うん、こんなに楽なのも初めてだわー。神のご加護よ」
 そう思えるのは純粋に羨ましいが。
「それよりも、余りのサンタの帽子ないんですか、それ僕も被りたくなってきたんですけど」
「余りはないわ。町にサンタは一人だけって設定だから余分は無いのよ。だったら君なんかよりアタシが被った方がいいんだ。見た目的に」
 だってこのままじゃ僕は店の制服のエプロンを着たまま無様に空を飛ぶ阿呆だ。なにかサンタ的なモチーフが欲しい。
「オーナメントでも付ける? 鼻に」
 結構です。

「さー残すところ後二件だ。次は丘の上にある病院に向かう」
「なんだかだんだん偽善的性格が強くなってきましたね」
「なんてったってエゴだからね! 病院の中でサンタ伝説が流行りでもしてくれたら儲けもんよ」
「さすがサンタ汚い」
「サンタはアンタよ。あたしはお手伝いさん」
「その割に殆ど僕付いて行ってるだけですけどね」
「来年からはアンタがやるのよ」
 アタシは卒論もあるし。
 え、大学生だったんですか。
 そうよこれだってリクスーよ。
 ……四年の冬でまだ就職決まってないんですか。
 ……氷河期だからね。
「いやもう確実に無理ですよね、どうするんですか」
「未来に不安を持ったアタシはクリスマスの空を駆けるのであった!」
 サンタは現実逃避かよ。

 丘の上の病院は少年も若いころによくお世話になっていた。所謂病弱というやつである。短い入院も何度か経験しているし、勝手知ったるとまでは言わないがそれなりにホームであるような気はしていた。中学に入ったころからは体も人並みに丈夫になり足は遠ざかっていたがそれでも年に一度くらいはお世話になっていた。
 入院できるくらいに大きなことは大きいのだが専門医は少ないこの病院は経営状態の悪化も甚だしくそのうち潰れるであろうことは想像に難くなかったが、それはまぁどうでもいい。
「で、どの子にプレゼントをあげればいいんでしょう。一人だけってわけにもいかないでしょうし」
「顔で選ぶわ。それに一人用のおもちゃじゃなくてそれこそ全員で楽しめるようなものを置いて行けばいいの」
 そういって彼女はまたにゅるっとゴーストよろしく病院の中に侵入する。彼もこの病院にはよく来たがこんな侵入経路はやはり初めてである。
「さーて何をプレゼントしようかなっ!」
 二人であーでもないこーでもないと病室の床で話し合っていた。やれ子供たちが遊ぶものと言ったら古今ゲーム機に違いないだろう、入院中に子供たちを廃人にしてやれだの子供たちには心の支えが必要だろう、聖書でも置いていったらいいんじゃないかいやそれって見つかったら確実に子供たちの立場が危ういですよねとか。
 人のためにプレゼントを考えることなんてなかった彼には慣れない事ではあったが、見返りを求めずに人に尽くすというのはなかなか心地の良いものであるらしかった。

 奇跡が効いているから誰にも見えない、奇跡が効いているから誰にも話し声は聞こえていない、彼らはそう思っていた。
 だから、その少女が起き上がった時には二人とも声にならない悲鳴を上げた。
 心臓に悪い。
「あの、もしかして誰かそこにいるんですか」
 完全にばれていた。もしや公安の回し者では、彼の背筋に冷たいものが走る。
 少女は中学生くらいにも見えたが、えてして病人というのは、特に子供は幼く見える。おそらく学校に通っていれば高校生かそこらで、要は少年と同年代だった。
「気づかれちゃしょうがないわね、いつから?」
「話し声が聞こえてからはずっと」
 しかし彼女はこちらの声には反応しているものの、目はこちらを見ていない。
「え、つまりあなた、もしかしてずっと起きてた?」
「えぇ。去年からも、サンタクロースが来たっていう噂は聞いていたので。……年頃にもなく恥ずかしいですけど、確認したいなぁと思ったら目が覚めちゃって」
 あちゃー、横でスーツ姿の退役サンタがため息を漏らす。
「いや、あのね、確実に私の手違いなんだけど、起きてる人を眠らす奇跡までは使ってなかったんだわ……。っていうか今もう午前3時でしょ、起きてるとは……いやはや」
「え、あの、……もしかして本当にサンタさんなんですか?」
「ばれちゃしょうがないわね、そうよ」
 少女がこちらを向いた。おそらくステルス機能を切ったのだろう。
「私たちはサンタクロース。この病院に愛と希望とアガペーを持ち込みに来たわ。なにかご希望のプレゼントはある? この国々のいっさいの権力と繁栄でもいいわよ」
「それサタンのセリフですよね」
「サタンよ、退け。ただ、神に仕えるのみである。権力などいらない」
「君もノらなくていいから」
「そうですね……、ゲーム機も聖書もいりませんから、絵本をくれませんか? 入院してる子供たちのなかで、小っちゃい子もいっぱいいるんですけど、その子たちに読み聞かせてあげたいんです」
 どうやら少女は本当にそれが望みであるらしかった。
 少年も少女の心持に感じ入るところがあった。彼なら自らの欲望のままに欲しいものを述べたであろうと考えると、彼女の精神に比べて自分がなんと人間的に劣るものか!
 退役サンタの方はというと感動で目尻に涙を浮かべている。袋を持ってくるとそれをひっくり返し、絵本がばらばらと落ちてきた。
「さぁどれでも持っていくがいい! 神の国はあなたたちのためのものである!」
 宣教に来たのかよ、あ、そういえばそうだった。

 少女に絵本を引き渡した後、少年たちは後一軒を残して近くの公園で一息ついていた。予想以上にことが早く進んで、少々時間を持て余しているというのもある。
「いや……、私は現代に彼女のような人間が生きていることに驚いたね。自らも病院暮らしという不自由で娯楽のない生活にありながらそれでも子供たちを気遣う心のその清さと言ったら!」
 適当に聞き流して、彼は今日の出来事を振り返っていた。
 無様な敗戦や衝撃的な彼女の登場、空を飛ぶ爽快さにクソの役にも立たないボランティアの楽しさ、
 やはりこのアホみたいな話に乗って正解だったかもしれない。彼は妙にすがすがしい気分の中でそう思っていた。
「で、次はどこの家に行くんですか? 最後なんでしょう?」
「あぁ、最後ね。それは君の家さ!」
 予想外の答えに一瞬戸惑う。
「へ? あぁ、妹ですか?」
「ふふん、まぁそれは君の家に着いたら自ずと明らかになるだろう」
 サンタの家にサンタが侵入してどうするんだろう。何か深い意図でもあるのかそれとも彼女から個人的にプレゼントでももらえるんだろうか。少年は罪のない期待を抱く。
「さぁ、アタシにとっても最後の一仕事だよ、とっとと終わらせようか……危ないッ」
 視界が反転するのを感じた。そういえば中学二年生のころ思いきり当時のクラスで一番腕っ節が強い奴に殴られた経験があるが、それに近いかもしれない。バカみたいな感想が真っ先に浮かんだ。
 彼を強い力で押し倒したのは先ほどまで隣で少女を賛美していたリクスーの退役サンタである。
「な、なにすんのさ」
「喋んな。気づかれた」
 それが何を意味しているのかは明らかだった。彼らが先ほどまで座っていたベンチにはカモシカ一頭入りそうなサイズの穴がぽっかりと口を開いている。
「あーっと外しちゃいましたか。惜しいなぁ気づかれてないと思ったのに」
 センスの悪い制服を着たそいつは、確実に公安の「国教」を扱う部署のものであった。
「それはこっちのセリフだ。貴様ら我々にいつから気づいていた。……さっきの病院で姿見せたのがまずかったのかな」
「違いますよ。我々、今年からNORADと手を組んでいましてね、あなたたちの姿は黙視できなくとも、レーダーが確実に捉えているんですよ。物理学の前に膝を屈するしかない奇跡しか起せないような旧い宗教には死んでもらうこととしましょう!」
「クソッ、なんて世の中だ!」
「本来は聖犯罪者はデッドオアアライブなんですけどね。生きたまま捕捉できるならそちらの方が良いでしょう。そこのサンタクロース、神妙にお縄に付きなさい!」
「少年、バイクに乗れ! 三十六計だ」
 バイクに飛び乗ろうとする、が、
「そうはさせませんよ! 聖犯罪者は一匹捕まえれば昇進は確実です。逃がすもんですか!」
 無残にも彼のバイクは爆破、どうやらサンタクロースとは爆破と縁近い職種らしい。
「空も飛べなきゃサンタもただの女とガキ。悪い事は言わないから法廷で争ったらどうです」
 捕獲者は冷徹に近づいてくる。
 やっぱりこんな話乗らなければよかった。大体命の危険が伴う仕事だっていうのに最初にハンコすら押させなかった全国サンタクロース協会が全部悪いのである。
 胸が押しつぶされそうだった。これまで公権力に盾突いたこともない潔癖な生活を送っていた僕が、聖犯罪で捕まるっていうのか、冗談じゃない。
「……逃げて」
「えっ、今なんて」
「早く逃げて! アタシがアイツを引き付けてる間に私のバイクで逃げるのよ。私なら後でどうにかして合流するわ。……そうね、アンタがその手に持っている袋をアイツに投げつけるの。そしたらアタシは奇跡を起してアイツを怯ませて逃げるって算段。どう?」
「どうって言われたってそんな杜撰な計画で僕が納得するわけないじゃないですか。女を後ろに残して逃げろっていうんですか! 僕にだってプ」
「ガタガタ抜かしてんじゃねェよガキが。お前よりアタシのほうが奇跡の扱いに長けてるのは事実だろ? アタシだってアイツ一人から逃げるくらいだったら楽勝だっちゅーの」
 彼女の眼は真剣だった。少年はかつてこれほどまでに緊迫した場面には出くわしたことがないが、これはつまり事実上の戦力外通告なのだろうか。
「おしゃべりはそこまでです、神妙にお縄に……」
 しかし他に策がないのも本当だ、このままでは二人ともお縄に付いてしまう。
「今だ!」
 本当にこの作戦でよかったのか、そんなものを考慮している暇はなかった。
 ええぃどうにでもなれ!
 彼は手に持っていた袋をフルスイングで投げつけた。意外と近くにまで来ていたのでどちらかというと叩きつけたという表現のほうが正しい。
 カエルの叩き潰されたような音が聞こえたような気がする。確実に相手は油断していた。不意を突くことには成功した。
 しかし彼は後をろくに確認もしない。シルバーウィングに跨ると、大空に飛び出した。
 それは彼女への信頼でもあったし、それよりもさらに薄汚い生存本能でもあった。

 彼が事件の最悪のバッドエンドを知ったのは新年を迎えてすぐ、1月2日のことであった。

 結局あの後、彼女と合流することはなかった。
 シルバーウィングに跨り、丘の上まで逃げた。しかし、そこでいくら待とうとも彼女は現れなかったし、公安の追手すら来ることはなかった。
 朝が来て、一つの異変が起こった。降り積もった雪が朝日に溶けるのと同じようにシルバーウィングが蒸発としか言いようのない様子で消えてなくなってしまったのである。
 彼はその様子が何かよからぬことを暗示しているのではないかとも思ったが、交通手段まで消えてしまったのである。もはやどうしようもない。家に帰ることにした。
 それからの彼の心中といったら不安感と正体不明の罪悪感である。
 公安が確実にいつか来るとは思っていたが、いくらしても来ない。彼女からも連絡が付かない。いっそあの日のことが夢であればよかったとも思ったが、妹にはシフトを押し付けてどこかに行ってしまったことを詰られる(言い訳に失恋を匂わせてみたらなんだか苦虫をかみつぶしたような顔で黙りこくってしまったが)。つまり少年はあの日、何があったにせよシフトを押し付けて逃げ出したことは事実なのだ。
 僕は失恋のショックで哀れなソムナンビュールになってしまっていたんだ、そう結論を出してあのことから目を背けていた新年早々、獄中からその手紙は届いた。
 そこには、簡単にまとめると結局彼女が捕まってしまったこと、拘置所まで来て欲しいこと、この二つだけが書かれていた。
 目の前が真っ暗になるようだった。
 
 拘置所で彼女はふてくされた顔で面会の場に出てきた。
「あーもーさーアイツったら酷いのよ。乙女の顔を容赦なくぶん殴るんだもの」
「……ごめんなさい」
 謝罪は一度も出来ていなかった。彼は結局あのときの自分の無様で醜い生存本能がこの結末を引き起こしたと信じてならなかった。
 あの日から、少しだけ刑法について勉強した。今回のようなケースの場合、彼女は確実に死刑を免れない。公務執行妨害に宗教的に国家の不安を煽ったことによる治安維持法違反、もうどうしようもなく真っ黒だった。
「いいのよ、別にアンタが居たって全部変わらなかった。……しかも、謝らなきゃいけないのはアタシのほう」
 そして何より疑問なのだが、彼自身だって真っ黒なはずなのだ。
「……、全部、教えてくれますよね。僕がどうして日の下に居られるのかも含めて」
 
 結局、全部終わってみればひどい話だった。
 彼はサンタクロースでもなんでもない、一般人だったのである。
 それならば、彼の立ち位置は法的には聖職者の奇跡によって誑かされた善良な一般市民であり、せいぜいが不法侵入の罪に問われる程度である。
「つまりね、サンタクロースはアタシ。プレゼントを受け取るのはあの子たちもそうだけど、結局はアンタ」
「サンタクロースはね、前に言ったように子供たちの噂を使って宣教っていうのもあるけれど、心の弱っている人間に付け込んで信者を増やすのも目的だったわけ。で、その心の弱っている人っていうのが、アンタ」まぁ急な話だったんでアタシも焦ったけどね。当日の午後7時になってターゲットが変更になるもんだからさ。
「つまりアタシは嘘吐いてアンタを押し付けがましく空のデートに引き出して、親しくなって、弱った心に忍び込むことが目的だったの。それにも拘わらず君のことを守るだの自分が犠牲になるだの、恥ずかしいことをずいぶん言いました。ごめんなさい。挙句の果てに君を守ることが出来なくて、ごめんなさい」
「嘘吐いて、だまして、こんな結末になって、ごめんなさい」
 彼女は確かに、罪の告白をしている。
 ……だが、彼女は嘘を吐いている。この後に及んでまだ。
「公安の犬が勘違いしてたから、あのまま間違えてたらアンタもベンチごと死んでたかもしれないもんね」
「もういいんですってば」
 それも嘘なんでしょう?

 実際僕は、あの夜のおかげで失恋なんか吹っ飛ぶほど楽しかったし、あなたたちが裏でどう考えてようがそれは事実だ。僕は自分の意思であの日空を飛んだんだし、その事であなたたちが謝る必要はないし、むしろ僕の方が感謝しないといけないことだ。
 思えば、サンタクロースがランダムに選ばれるなんて言うのもアホらしい話だ。そんなことがあるはずがない。
 それになんと言ったか、僕のことを守れなかった?
 それこそ嘘だ。
 あなたは、おそらく僕のことを庇うような発言をした。あの日の僕の行動に自由意思はなく、奇跡で操っていただけだとでも言ったんだろう。だから僕にサンタの帽子は被せなかった。キリスト者の格好をさせるわけにはいかなかったから。
 かくして僕は哀れな聖犯罪被害者。おかしな動きを見せた時にはそれこそすぐ公安が飛んでくるものの、そうでもなければ一般人と同じ生活を送れる。被害者の精神に配慮しなければならないためだ。もしかしたら一度くらい警察に呼ばれるかもしれないが。
「そしてあなたは、全ての罪を引っかぶって死ぬ気なんだ。裏切り者奴!」
「嫌だなぁ裏切り者だなんて。ミッションインコプリートしたサンタクロースはどちらにしろ死ぬしかないんだよ。それに裁判だってまだだしね。生き残れるかもしれない」
「こんな事例で生き残ったケースがあるかッ。殉教者気取りはいい加減にしろ」
「じゃあどうしろって言うんだい? クリスマスイブの夜でなければサンタクロースは奇跡を起こせない。どちらにしろ公権力に捕まったからには神妙にするしかないんだよ」
 それにね、と彼女は声のトーンを落として言った。
 アタシにもまだ、秘策があるのさ。

 少年は彼女に追い出される形で拘置所を出た。すべてが憎らしかった。
 公権力もそうだし、自分の無力な無責任にもだ。
 何よりも自分ですべての罪を持ち逃げしていったあの腐れサンタクロースである。
 秘策といったところでどうせ碌なことではない。僕に一生罪の意識を背負わせるつもりか。
 こういうのをキリスト教に由来する言葉では十字架を背負って生きる、というらしい。こんな言葉は当然指導要綱から削除されて久しいが。とんだ皮肉である。
 少年は失恋したときには流れなかった涙が頬を伝っているのにも気づかなかった。



 1月6日、また雪が降っていた。
 彼は拘置所に行った日から立ち直っていなかった。初公判は1月15日だと聞いたが、行く気にもならなかった。
 公安からの人物も来やしない。結局全部彼女の思うツボだった。
 ため息が思わずこぼれ出る。ウマい話には当然裏があったのだ。
 あれ以来、オートバイの音を聞くたびにサルミアッキを食べたかのような気分になる。最初に来るのはどうしても罪悪感であった。
 憂さ晴らしに外を散歩する。迂闊にも彼女と一緒に行った家を見つけてしまう。これでは憂さ晴らしになりゃしない。オートバイの音がする。頭がおかしくなりそうだった。
 別に安い許しを求めてるわけじゃない。そういうのが欲しかったらそれこそ宗教にでも頼ってる。今回のことの理不尽さに、それをどうすることも出来ない事が悔しくて仕方がないのである。
 結局、取り返しのつかないことが2つに増えただけじゃないか。
 


「なに湿気た顔してんだよ」
 後ろから肩を叩かれた。

「前向いて歩け? エロ本でも落ちてたか?」

「……キリストの復活より遅かったですね」
「おいおい勝手に殺すなよ。策はあるって言ってただろ」
「僕の中じゃあなたは殉教した聖人で、僕はあなたの後を次いでアレやこれやするっていう設定だったんですよ。僕は聖なる殉教を見て回心、地上の神の国を実現する予定だったんですよ」
「強がりいう前に涙を拭いたらどうだい」
 そこに触れられると弱い。涙腺の固さには自信があったが。
「……こんな時くらい、年上に甘えなさい」

 この前の公園のベンチは再設置されていた。二人はそこに腰掛ける。
「で、結局? どうやってあなたはその支配からの卒業しちゃったわけですか」
「別に、簡単な話だよ。アタシは獄中でロシア正教に改宗した。それだけの話さ」
 あぁ……その手があったのか。あまりに下らなさすぎて笑いが止まらなかった。
 ロシア正教ではユリウス暦を採用している。グレゴリウス暦とのずれから、ロシア正教ではクリスマスは1月7日に行われる。つまり、今日、1月6日はクリスマスイブだ。サンタクロースは奇跡を起こすことができる。
 つまり彼女はこう考えたのだ。
「命のためなら信仰だって捨てるよ!」
 信仰は投げ捨てるもの。
「つまりあなたはサンタクロースからマロース爺さんになったってわけですね」
 先ほどまで胸を借りて泣いていたことを都合よく忘れて茶化してみる。
「スニグーラチカって言ってくれない?」
 下らない、余りに下らない。
「まぁどちらにしろアタシは聖犯罪者だからね、今日、奇跡が起こせるウチに国外逃亡するよ」
 正教徒にプレゼントを配りに行くついでにね。
「ゴメンよ、この話、聞かれるとまずいから拘置所じゃどうしても言えなかったんだわさ」
「別にいいですよ……もう。なんだっていいです」
「まぁほとぼりが冷めたら帰ってくるよ。こっちの国に住めなくなったのは残念だが、フィンランドとかでサンタの修行をするのも悪くない」
 ベンチから彼女が立ち上がる。肩にかかった雪を払ってバイクにまたがる。
「じゃ、次に会うのはいつになるかわからないが、また帰ってきたら会いに来るよ」
 その時にはおみやげ何がいいかしらね、ロシア名物の人間の心臓とかどうかしら。
 それとも何かしら、サルミアッキでもシュールストレミングでも、何でも買ってきてあげるわよ。北欧をごっちゃにしたような発言を繰り返す彼女を遮って少年は言った。
「いや、次に会うのは来年のクリスマスイブの夜ですよ」



「僕が空を飛んでバイクで会いに行きますからね!」