プリースティスに聞いてみろ

1.ポルトガルからやってきた


--17:35
 ……ここで合ってるよね、もう一度階段の階数表示を確認するとちゃんと五階となっている。なにか違和感を感じつつも僕は殺風景なドアに手をかけた。
「!」
 開けるや否や、予想外も予想外、とんでもない爆音が耳を穿った。反射的に後ろに転げてしまう。お、おい、今の爆音は何だ。おかしいだろ色々とっていうかこのドア防音凄いな!

--17:13
 パチンコ店やミシン専門店などが並ぶずいぶん無節操でミサレニアスな大通りから路地に入り、少し進むとそれだけで不自然なほどに人通りが少なくなる。こんな路地にも名前は付いているんだろうか? 我が輩は路地である。
 ただでさえ路幅が狭い上に、ゴミ箱やらそこから溢れだしたゴミ袋やら、それにまとわりつくカラスやらが細い路地に敷き詰められていてまともに通れない。人は居なくてもゴミは溜まるらしい。つまり人は居るのだろう。
 先程から何度も確認しているのだが、それでも携帯を取り出して時間を見てしまう。とっくに遅刻している事実は変わらず、それでも足を速めた。近所の学校のチャイムがあちこちからワンアフターアナザーにこの路地に飛び込んで反響する。
 ところでみなさん、英語学習は計画的に進めているだろうか。いや、何も教科としての「英語」ではない。実際に海外で有効に使うといった意味での英語である。
 もちろん僕は、今までそんなものに全く興味は無かった。英語の中間期末テストは一体何がどうしたのか毎回平均点ピッタリジャストミート。興味もなければ特段の恨みもなく、受験まであと丸々二年を残す身としては焦りこそ感じなければいけないんだろうけど、かといって切迫するほど悪い点数というわけでもないのも事実。
 しかし、ここで黙っていなかったのが僕の母親だ。強権的というわけでもないが、盲目に愛を注ぐタイプでもない。他の教科は後々考えるとしても、英語だけは学校の授業だけでは不足だと思ったらしく、わざわざ僕なんかのために塾まで探してきてくれたらしい。涙ちょちょ切れる思いだ。
 で、それが大手の塾だったらなんの問題もない。そういう大手塾は、普通は駅前のどう考えても迷いようがないような位置に位置している。だがうちの母親が見つけてきた教師というのが、自分の大学時代の知り合いの親戚で、最近日本にきたイギリス人だとかいうので、そこが問題なのだ。こいつが何をトチ狂ったか英語教室を始めるのにこんなわけのわからん細い路地に建っているらしいビルに陣取ったので、僕は絶賛迷子中というわけである。
 道なりに進んでいるだけなのに、路地は何度もくねくねと曲がる。丁字路すらなく、右折左折を繰り返している僕は、上空から見たら迷路と言うよりは粘菌の移動経路みたいな動きをしているんだろうなぁ。
 ところで、急がば回れというのを、その場で回れという意味なのだと思っていた時期がある。幼い頃の話だ。つまり、落ち着いて周囲の状況を見渡すことで精神に余裕が生まれ、博愛の情が世界を救うといった案配である。強ち一蹴すべきほど、理論破綻は無いように思われる。ここは一つ、少年時代の僕に従ってみようかしらん、某イギリス人に事前にFAXされてきた地図付きの案内状を片手に半回転。
「おお」
 まさにコペルニクス的回転、ふと目に飛び込んできたビルの形、それは地図にモノクロでプリントされていたビルそのものだった。

 蔦がびっしりと側面正面に張り付いたその長細いビルは、色調を変えればそのままノベルゲームの背景素材に使えそうなホーンテッド具合。BGMはあえてのFM音源だ。
 ぽっかりと開いた入り口に下がった汚い看板には『足黒ビル』と明朝体が踊っていた。ビルの持ち主の本名なのかただの駄洒落なのか……。
 典型的な雑居ビルで、管理も適当らしく、エントランスの横際に「トルコ料理『スルタン』」だの、「佐伯心療内科」だの、何階にどんな企業が入っているのかを書いたボードはあるものの、一目で何年も前から更新されてないことがわかる。だってこの某消費者金融も某美容整形もつぶれたの何年前だと思って。
 なんにせよ、急がなくてはならない。とっくに時間は過ぎている。一応案内の地図には「fifth floor」とあるので、五階に行けばいいのだろう……と信じたい。
「げっ」
 エレベーター故障中との張り紙。おそらく今世紀中に直ることはないだろう。仕方がないので階段をかけ上がることにした。ひえぇ。
 階段には電気もなにも付いていない。灯りといったら踊り場ごとの窓から入る陽だけの階段をただひたすらかけ上がる。古い建物ってのはどうしてこうもコタンジェントの値が小さい階段を作るのかな! ラッタルに淡々と響きわたる僕の足音が大きく小さく不均等に反響する。
 息を切らして階段をかけあがると、ふと横目に「五階」の表示。この階であってるらしい。そんなに段数上がったっけな。
 五階のどこにあるんだろうと心配していたのだが、その心配は結果的には不要だった。そもそも、このビルには一階ごとに一部屋しかない。
 何はともあれ、遅刻の詫びを考えながら、目の前のドアに目を向ける。
 と、ここで冒頭に戻る。

--17:36
 いま、耳を物理的にぶち壊しにかかってきたその爆音がドミトリー・ショスタコーヴィッチ作曲の交響曲第五番第四楽章だと気づくのには数秒を要した。トロンボーンが完全に音割れしちゃっていたせいで、もはやあれはシンフォニーというより象の鳴き声の方が波形的には近かったんじゃないか。
 人目も気にせず、いやもとより人目なんかないが、たっぷり一分は床にへたりこんで呆然としていただろうか。この部屋の住人は頭がおかしいのか、いやしかしこれだけの大音量だとさすがに外に漏れるはずだし、もしかしたら僕の幻聴だったのかもしれない。現代社会の闇がここまで! そんなことを考えていても仕方がないので、意を決してもう一度ドアを開く。先ほどより心なしか重たい。
「……!」
 今度は心の準備をしていたので、まだ平気だったが、やはり大音量のショスタコ。僕の気が狂っていたわけではないらしい。
 少し小節が進んでいるので木管楽器中心の多少うるさくない部分に進んではいたが。それでも常軌を逸している大音声だ。
 ドアを開けるとすぐに、目に飛び込んできたのは、人が住んでいるとは思えないほどアンタイディーなワンルーム。
 およそ学校の教室の半分くらいだろうか? カーテンも閉め、電気すら消しているためにかなり室内は暗い。カーテン越しに射す光に目が慣れるまで少し時間がかかる。
 床には革張りの人を殺せそうなほど分厚い本があちこちに塔を造り、紙やら横倒しになったセトクレアセアの鉢植えやら(土がこぼれている!)、世界史の資料集で見たような聖像画やら、穴のあいたユニオンジャックやら、わけのわかるものからわけのわからんものまでとにかく乱雑に散らばっていた。足の踏み場がないし、無理に一歩動いてみたら足に十字架が刺さった。こんなもの落としておくなよ。
 乱雑な景色の向こうに、これまた新聞紙やら解きかけのナンバープレースが雑多に散らばったガラステーブルを挟んで、合成革のソファが向かい合って二脚置いてある。奥に置いてあるソファにはローランドの電子ピアノが安置されていた。電源付きっぱなしじゃん。
 二台のソファのさらに奥には大きくて無骨な銀色のデスク。机の上にも乱雑にものが置かれていて、特になんだろうあれは。スープ春雨の空きカップだろうか。臭い出さないうちに片づけた方がいいな。
 しかしとにかく、ショスタコーヴィッチがうるさい。
 手前側のソファの背もたれの上に危ういバランスでこのやかましいショスタコを黙らせることが出来そうなオーディオのリモコンとおぼしきものがあったので、何はともあれそのソファに無理矢理近づいてそれを取り、ショスタコに引導を渡す。ようやっと平和が訪れた。コミュニストは去った。
 そして、ふとソファに目を下ろすと
「……?」
 ネービーブルーのパンツスーツ姿に僧帽を頭に乗せたというミスマッチな格好をした女性が、ソファーにだらしなく寝ころんで、なんで音楽が止まったのかわからない、といった風に目をこすりながらこちらを見ていた。
 そして、胸には十字架。

 どちらかというと彼女の方が僕に不法侵入されたわけで、取り乱しても不自然ではなさそうなもんだが、可哀想なくらい取り乱す僕を見て逆に冷静になったのか、「とにかく、落ち着いて話をしましょう?」と言って、お茶まで淹れてくれた。女神か。ただ、この部屋の状況とかを鑑みるに残念ながらお茶を頂くのは遠慮。
 さっきまで電子ピアノが鎮座していた方の(つまり、入り口から見て奥)ソファに腰掛けさせられて、落ち着きはしたものの、居心地は相変わらず悪い。というか掃除したいこの部屋。
 この女性、さっきも取り乱した様子がなかったが、なるほどどこか超然とした雰囲気を醸していらっしゃる。二十代の……後半だろうか、モノローグとはいえあまり失礼な概算をしても困るので顔には出さない。
 彼女は、向かいのソファできれいに膝をそろえて座っていた。目算してみた感じ、彼女の方が僕より若干背が低いか同じくらいなのだが、座ってみると明らかに彼女の方が目線が下に来て僕の自尊心は勝手に傷ついた。
 ……少々盛って描写するならば、三十二相八十随形好すべてそろったお顔立ちとでもいおうか。いや、盛りすぎた。でも、こんな人がこんなところで何を?  なんというか、美人過ぎる市議といった言葉がさっと浮かんでは消えた。
 ハーフアップのヘアスタイルを見るに、さっきの僧帽はどうも被るものではなく、昼寝の時の目隠しだったらしい。ってことはさっきのショスタコはお昼寝のBGMか。どう考えても選曲と、なにより音量を間違えてやがる。
 人の顔を眺めて何もいわなくなった僕にしびれを切らしたか、彼女が口を開きかけたのを見て、その前に質問をしておかなければと思い立ち、
「あの、一つお伺いしたいんですが、ここってまさか『ジャックの英会話教室』さんだったりは……しませんよね」
 彼女は開いた口をそのままぱくぱくさせてクェスチョンマークの代わりにしてくれた。
 そのまま二秒は経っただろうか。遅れて声が聞こえてくるよ的な腹話術を見せてくれるのかと思ったが違った。
「あ、……いえ。ここは……そうですね。ここは英会話教室ではありません」そこでまた少し考えて、「まだ名前はありませんが。とにかく、ここは教会です」
「え?」
 今度は僕が口を開く番だった。

--17:46
「教会、ってあのテンプルとかチャーチとかチャペルとかカテドラルの」
「そうですね、迷える子羊を導くほうの教会です。それで、アソシエーションではありません。あえて言うなら、カシードラルも誤訳になるでしょうね。……そしてわたしは、この教会の助司祭です」
 そういうと、胸のラテン型十字架を少し掲げてみせてくれる。少々くすんでいる。貴金属ではないのだろうか?
「こんな」
 思わず失礼なことを言いかける。
「こんな?」オウム返しされた。ええい、言ってしまえ。
「こんなビルの中に?」おっと、汚いという形容詞を入れ忘れた。
 ふふっと花を拈る釈尊のように微笑む彼女。だがそんな莞爾たる微笑みも床の汚さを強調するに過ぎなかった。
「ビルの中に教会があってはいけませんか?」
「そんなことはないですけど……」
「今どきはビルの中にお寺があったりするくらいですからね、教会があっても不思議ではないでしょう?」
 不思議……というかなんというか。実際ここに子羊たちが救いを求めに来たとしても、子羊たちも、腹が減ったと物乞いをしていたらフーセンガムを渡された乞食のような顔をせざるを得ないんじゃないのか。
「なるほど、乞食のフーゼンとフーセンをかけてるんですね。面白いです」やかましいわ。
「このあたりの賃金労働者……サラリーマンの方々は日頃なかなかにお疲れのようでして。こんな場所に、と思われるかもしれませんが、こんな場所だからこそ仕事終わりにふらっと立ち寄って頂けたりするんですよ。もちろん懺悔をなさっていく方も多いですし、ただ単に愚痴を聞かせて頂くこともありますし、可能であれば相談に乗ったりもしてます」
 具体的にはどんな営業形態(?)の教会なんだろう……。あまり踏み行ったことを聞ける間柄でもないのが惜しい。っていうか、それって思い切りそのまま水商売っていうんじゃ。
 あまり深入りしない方がいい気がした。好奇心は男子高校生をも殺しかねない。
「……で、あのショスタコーヴィッチは?」
 多少の恨めしさ混みで聞く。
「たまたまですよ。いつもiPodの音楽をスピーカーで鳴らしながらお昼寝してるんですけど、偶然第五の四楽章だっただけです」
 本当だろうか。
「床がこんなに汚いのは?」
 彼女は下手な口笛を吹いて答えず、振り返ってまたスピーカーの電源を付けた。流れ出すホルストの木星。またあのバカみたいな音量だったので、僕があわてて身を乗り出してスピーカーのつまみを回す。
 しばらくホルストが場を支配していたが、彼女は自分のカップの中身を飲み干して、姿勢を正して本題に入る様子をみせたので、こちらも姿勢を正す。お茶は頂かない。
「それで、えーっと……、そういえばお名前をお伺いしていませんでしたね。わたしの名前は南の風に花とかいてハイバラ、それに港湾の湾で南風花湾です。地名みたいな名前でしょう?」
 一瞬、洗礼名でも名乗られるのかと思った。流石にそれはないか。
 と、冗談で口に出したら、あながち間違いというわけでもないらしい。「いりえ」という名前は、ミサ通常式文の主に哀れみを求める祈りの文句、「キリエ・エレイソン」から取っている、いわば芸名みたいなものなんだそうだ。だったら「桐絵」とかにしといた方が分かりやすいんじゃないのとも思ったが、個個人の自由なセンスだ。
 名字の南風花は実名らしい。ふつう逆だろ。
 どうもこの芸名の方で呼んで欲しいらしいので、意に従うことにする。「キリエ・エレイソン」という文言はある吹奏楽曲のおかげで前から知っていたが、実は僕もわりとこの文言が好きだったりするのである。
「それで、君の名前は?」
 名前ね、知らない人にあまり名前を教えるのも現代人的にどうなんだろうとか思ったけど、不法侵入をかましておいて名乗らないのは不審すぎるし、不誠実か。
「富浦小海です」偽名ではない。
 湾さんはちょっと考え込んで、
「小海ですね、覚えました。……ところで、ここが教会だと聞いて驚いたってことは、ここに用事があっていらっしゃったわけではないんですよね。そういえばなんとかさんの英会話教室とか仰ってましたっけ」
 おっと。時計を見ると、すでに約束の時刻を一時間ほど過ぎている。これはもうどうしようもないかもしれない。
「いや、実はですね、このビルの中の英会話教室に今日から通い始めることになったんですけど……」
 そうだ、ここまで言って気が付いた。
 僕は、急に立ち上がって玄関に向かい、ドアを開ける。そこには相変わらずの「五階」との表示。
「どうされましたか? トイレならありませんよ」
 ないのかよ。じゃなくて、
「……ここって五階ですよね。でも、その英会話教室の人は五階に自分の教室があるって言ってたんです!」

--17;58
 湾さんは電気を点けた。やっと室内がはっきり見渡せるようになったが、見渡せない方がよかった気もする。ああ、掃除したい。
 ホルストは、ちょうど天王星まで進んでいた。気の抜けたオーボエやバイオリンやクラリネットのソロに、緊張感は否応なくぶち壊れる。ぽぺーぽぱらぱぴー。
 ぽぺーぽぱらぱぴーを皮切りに、彼女が口を開く。
「残念ながら、わたしもこの五階生活も一年近くなりますけど、そんな教室がここにあるっていう話も、あったっていう話も聞きませんね」最近出来たばっかですしね。
 やっぱり、そういうもんかな。といっても、僕も近隣に誰が住んでるかなんて全然わからないし。現代の無関心! ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの転換って奴だ。
 予想以上に親身になって聞いてくれる湾さんに若干戸惑う。
「あ、でも大丈夫です。たぶんなんか僕が地図読み間違えたとかのミスしたとかだと思うんで、もうちょっと迷ってみます」
 そろそろこの辺が引き際かな、と思う。ゲゼルシャフトにおいて、見知らぬ人との邂逅を長く引きずるのはあまり得策ではない。名前を教えてしまったくらいは何ともないが、そもそも湾さんに迷惑をかけ通しな気がする。
 すっかり湯気も立たなくなったお茶に、口を付けるフリだけして立ち上がる。
「お茶、ありがとうございま……」
 ばっ、と腕を捕まれた。キャッチミーバイハンド。
「いえ、待って下さい。その地図? ですか、それを見せてくれますか?」
 今まで人当たりの良さそうだった顔つきに、急にエネルギーがこもったような気がした。
 突然のことに驚き、そのままソファにすとんと座りなおしてしまう。えっ、押し強くない?
 湾さんはソファから立ち上がり、感極まったかのように大仰に両手を広げて、
「まさに迷える子羊! わたしが導いてあげましょう!」
 ……あぁ、なるほど。「可能であれば相談に乗ったり」っていうのはこのことを指していたのか。好奇心に満ちあふれた湾さんの目に圧倒されながら僕はそんなことを思った。
 
 つまり、湾さんはここで私立探偵まがいのことをしているらしかった。
 当初は本当に懺悔をする客(という言い方が正しいのかどうか、キリスト教には詳しくないのでわからない)が多かったみたいだが、ある中年サラリーマンの持ち込んだ人生相談を、いわゆる「謎解き」をすることで解決してしまったらしい。それ以来、そのサラリーマンがうっかり漏らしたのか知らないが、初めはサラリーマン連中に、そこから飲み屋やパブ、サラリーマンたちの家族などを経由して、どんどん依頼客が訪れるようになったとか。誰か本来この場の持つ意味合いを思い出してやれよ。
 持ち前の好奇心も相まって、律儀にそれに対して謎解きをしていき、しかもそれが真相をズバリ的中させていたばかりに、この辺りではここに来れば解けない謎はないとまでまことしやかに噂されているという。まぁ、下世話な話、顔も人気に含まれていないとはいえないだろうが……。
 とはいっても僕の耳に入る段階まで噂が大きくなっているわけではなく、今はまだ知る人ぞ知る名店くらいの位置にあるのかもしれない。一種の都市伝説だ。
 で、そんな謎解きを律儀にこなしていくもんだから、調べることも多くなり、片づけなんかしてる暇がないので、床には大量の書籍とゴミが散らばり、昼間っから昼寝していたのだという。
 まぁ、散らかり具合のエクスキューズを述べるときだけ早口だったから、その辺は話半分に聞き流した方がいいかもしれない。そういえば、話半分というのは残りの半分はなんなのだろう。やさしさ? バファリンじゃあるまいし。
 一ついえるのは、「知る人ぞ知る」なんていう枕は教会に付くべきではないということだ。
 さて、ああ言われて、僕は上着のポケットから折り畳んだままの地図を差し出す。うわっ、くしゃくしゃ。ちょっと恥ずかしい。
「これですね。……ちょっとよれちゃってますけど」 湾さんは僕から地図を受け取ると膝の上に乗せてそれを読む。
「英語で書いてありますね」
 英会話教室の案内ですからね。モンゴル語なんかで書いてあったらそれこそ不自然である。
「fifth floor……。おかしいですね。確かにここは五階ですけど」
「でもこの先生が勘違いしたのかもしれないし」
 湾さんがそれでは納得がいかんとばかりに品よく眉をひそめる。
「いまさら勘違いするなんてことありませんよ。わたしも最初はよくこんがらがっちゃって間違えましたし」
 うん?
「えっ、どういうことですか?」
 ここで湾さんも首を傾げる。いやな予感がする。
「あれ、階段で上がってこられたのに気づかなかったんですか?」

--18:04
 階段を上りながら、自分のうかつさを呪った。
 思えば、エントランスのテナント一覧で気づくべきだったのかもしれないが。
――「だから、それがごかいなんですってば」
「いや、五階なのは分かってますよ。書いてあるんですから」
「違うんです。だから、誤解なんです。fifth floorでも、多毛類ゴカイ科の環形動物のラグワームでもありません。ミスアンダースタンディングです。いいですか? このビルには、『四階』がありません」――
 そう、このビルを建てて、最初に入ったテナントが「佐伯心療内科」なのだが、つまりこいつがすべての原因である。
 『四階』は『死』に発音が通じるから患者に不安を与えかねない、という理由で忌み数として避けられたのだ。よく病院やホテルなんかで行われているが、こんなビルでもやるらしい。
 僕が階段で上がっておきながらそれに気づかなかったのは単純に不注意なのだけど、ジャックが気づけなかったのはいささか仕方がないとも言えなくもない。
 来日してすぐだった上に、階数表示は漢数字でなされていたからだ。ジャックは日本語のリスニングスピーキングはともかく、Kanjiなんていう高度な段階にはまだまだ達していなかったようである。
「だから、『fifth floor』っていったらこのビルの表示でいったら『六階』のことですね」
 ということで、『六階』にたどり着いた。本来は五階であるはずの階層である。ここまで来るのに、いろいろな意味で長かった……。
 目の前にあるドアは、五階にあるものと同じ。言い訳のネタはないわけでもないので、先ほどよりは気楽にドアノブに手を伸ばす。ジャックが理屈の通じる人間かどうかはまだわからないのだが。がちゃっ。
 ドアを開けた瞬間にむわっとした熱気と、獣めいた匂いが立ちこめてくる。ん、え?
 室内は薄暗く、ディック・デイル&デルトーンズのMisirlouが流れている。パルプ・フィクションのテーマだったか。本編はともかく、サントラまでファックファックマザーファッキンとうるさい映画だった。なにやらよろしくない予感ばかりがする。
 そして薄暗さに慣れた目が不穏当なものをとらえる。干された下着だ。といってもピンク色の展開ではない。
 どうみてもそれは、使い古された、いや、使いこまれた色合いのボクサーパンツだった。絶対に英会話教室じゃない。あぁ、耳を澄ませると何かがギシッときしむ音が聞こえる。これはアウトだ。逃げ出せ。動け、僕の足。
 奥から立派なカラダをしたドレッドヘアーのお兄さんが出てくる気配を感じて、僕は玄関に踏み入れようとしていた足をそのまますごい勢いで後ろに引いて、転がるように逃げ出した。間違えましただのなんだの叫びながら。

「わ、わ。どうしたんですか急に」
 逃げ帰ってきた僕を、さすがに湾さんも当惑の表情で迎える。
 『五階』に逃げ帰ってきた僕は、湾さんにいま見てきたことを洗いざらいぶちまけた。わりと激しく。
 聞いている途中で湾さんの顔がどんどん赤くなっていくのが面白かった。生娘でもあるまいし、って聖職者だから、あれ?
「ーー絶対にあれはハッテむぐむぐ」
 僕の口を彼女の手が塞ぐ。さっきまでの男臭さに比べるとなんと心地の良いにおいのすることだろう、などと変態的なことを一瞬考えてしまったことは否まない。
「か、仮にも教会の中でそんな、いけません。その単語はいけません!」一瞬、においに対する感想を叱られたのかと思った。
 だが、湾さんの手を振り払ってなおも続ける。っていうかアンタ今仮にもって言ったな自分で。
「湾さんがいい加減なことを言うから!」
 とたんに縮こまって恐縮する湾さん。いや、彼女が全部悪いわけではないのだが、というかほとんど僕が悪いのだが、それでもどこかに文句をぶつけざるを得ない。僕の貞操が危なかったのかもしれないのだ。
「……その方に、ここに入っていくのは見られてませんよね。今にもそのドアが開いてそのドレッドヘアーのお兄さんが入ってきたりとかはしませんよね」
 おそるおそる、といった具合にドアの方を振り向きながら湾さんが言う。僕もつられて目線がそちらに行ってしまう。冷たいものが背中を伝った。
「み、見られてませんよ! ……たぶん。恐ろしいことを言い出さないでください」
 でも、と湾さんは膝の上の僧帽を指でつついて少し真面目な表情を作る。
「六階でないとしたら、いったいジャックさんは今どこにいらっしゃるのでしょう。忌み数で説明がつくと思ったんですけれど」
 ……。確かに。僕のそろそろ落ち着きを取り戻した脳もおかしいと告げていた。
 身近に存在したストーンウォール・インのせいで意識から消えかけていたが、ジャックとは未だに邂逅を果たせていない。
 さっき湾さんのつけた理屈は非常にもっともなものだった。少なくとも僕にはそう思える。
「じゃあ、こう考えてみるのはどうでしょう。なにものかが何らかの方法で小海のその地図をすり替えた」
「何のためにですか」
「ここに連れてくるため? だって、あの地図はどう考えても小海をここに導くためのものとしか考えられません」
 そしたら犯人はアンタだ。
「え、え? わたしは犯人じゃないですよ?」わたわたと両手を振る。
 じゃあ誰なんだよ。
「だいたい何らかの方法もなにも、送られてきたFAXはその場で確認しましたし、それと大きく違ってたら気付きます。現実味がないし、動機もない」
「じゃあなんで六階にもジャックさんがいらっしゃらないですか」
 逆ギレされたって困るよ。
 半ば考えることを放棄した僕と、品よく腕組みをして(なかなか難しいから一度やってみるといい)考え込む湾さん。いっそのこと早く帰りたい。
「……うーん。人を道に迷わせる方法、ですか。人の道を踏み外させる方法とかならまだしも」
「そっちの方が思いつきませんよふつう」
 少しは僕も考えに参加した方がいいのかもしれないが、二人であれこれしようとたかがしれている。文殊0.6人分ちょっとの知恵しかでないのである。そういえば、三人よれば文殊の知恵というが、文殊が三人集まればどうなるんだろうと小学生の頃考えていた。高校生の今となっては、高速増殖炉もんじゅに謎を解く鍵があるのではないかと考えている。なんてったって増殖だからね。人知を越えた叡知がありそうだ。
 ぶつぶつとうつむいて考え出した湾さん。そういえばわりと長いことこのひとの時間を拘束している気がするが、教会に用がある人も、名探偵に用がある人も一人も見えない。人事ながら心配になってしまう。
 何か思いついたのか、唐突に湾さんが右手の指を二本たてる。
「たとえばこんなのはどうでしょう。そもそも、すり替えられたのではなく、その地図自体がジャック氏ではない誰かが送りつけたものだとしたら」
 ……確かに、ジャックの電話番号を知っているわけではないから、この地図がジャックから送られたものなのかどうかは厳密に言えば分からないけど。
「そしたら、本物のジャックはうちにFAXを送らなかったことになりますよ。それはおかしい」
 彼女は「では」といって指を一本折り、続ける。
「二つ目の可能性。ジャック氏は約束通りの時間に『六階』で待機していた。しかし、小海の到着が遅れたためにジャック氏がテナントとして入る前、空だった『六階』を以前からそ、その。……特定の粘膜交渉の場として利用していた男達が自分達の居場所を奪われた腹いむぐ」
 今度は僕が立ち上がって彼女の口をふさぐ番だった。「滅多なことを言わないでください!」
 冗談ですよとでも言うように左手をひらひらと力なく振る湾さん。右手の一本残っていた指も折られ、握り拳のようになる。右手はグーで、左手はパーで。……なんだっけ。
「だって、そうでもないと、送られてきた地図は正しい、小海が実際に行った場所も正しいのに、正しい場所にジャック氏がいないことになります」
 それはそうなのだが。
「やっぱり、もう一度地図を見せてくれますか? ひょっとしてここじゃなくて、似たビルかも」
 そんなわけはないだろう……とおもいつつも、あの蔦に覆われた外観なら、それにばかり意識が向いて大きさが似ていれば間違えてしまうかもしれない。地図上にプロットされた、ジャックの英会話教室が入っているとか言うビルの位置と、この足黒ビルの地図上の位置が違えばただ僕が道に迷ったというだけですむ。ただ、もはやその可能性はほとんどど残されていない。
 モノクロ印刷の地図を眺めて、ずいぶんとこいつのせいでやっかいなことになったな、と考える。
「〜〜it's fifteen minutes to five.」紙の上半分、中央あたりに目立つフォントで書いてある。
 待ち合わせの時間は四時四十五分。今は六時ちょっとすぎ。もうどうしようもない。あぁ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。もし本当にさっきのお兄さん達に頂かれていたとしたら。あぁ。
 ジャックが描いたのだろうか。へたくそなカエルの絵にフキダシが付いて、「Have you got any time for spare for us? Let's enjoy speaking English!」とのお言葉。時間はあったんだけど諸般の事情で遅れてます。ごめんなさい。あ、いいわけも英語でしなきゃならないんだろうか。
 地図を渡してしまうと、どうにも手持ちぶさただ。「掃除しててもいいですか?」綺麗好きとしてはどうも、この部屋は許しがたい。というかこのビル全体を掃除してやりたい。
 しかし、返事が返ってこない。まぁ、初対面の人間に見られて困るものの一つや二つは落ちているのかもしれないよね。ただ、落ちてる本をまとめてきれいに積み重ねて隅に寄せるくらいはしてもいいだろう、ということで立ち上がる。
 すると、湾さんも同時に立ち上がる。
 うわっ、どうしたの。
「分かりました!」

--18:16
 弾けんばかりの自慢げな顔を向けられて、立ちくらみにも似たものすら感じる。湾さんは地図をテーブルに置くと、何箇所かに下線を引き始めた。
「小海、こんなことに気づけないなんてわたしは馬鹿でした」とかなんとか言いながら、反面うれしそうにことを進めていく。
 下線が引かれたのは英文の中の、さっきの「fifteen minutes to five」「Have you got……」ほかには「leant」などの部分。
 ……さすがの僕も、ここまで明らかにされれば分かる。
「ああ、……」
 湾さんは大きくうなずいて、
「そうです。クイーンズイングリッシュという表現が適切かはわかりませんが、この文章の中で今私が下線を引いた部分、『fifteen minutes to five』や、『Have you got』、『leant』、『colour』などの部分は、イギリス英語とその影響を受けた地域に特徴的な表現です。それぞれ、アメリカ英語では、『fifteen minutes of five』、『Do you have』、『leaned』、『color』と書き換えられなければいけません。つまり、ジャック氏はイギリス英語を日常的に使う人間」
 あぁ、こんなにもたくさんヒントがあったというのか! ヒントもなにも、僕はジャックがイギリス人だと最初から知っていたはずだが。
 思わず顔を覆って、ため息をもらす。
「そして、もうおわかりかもしれませんが、イギリス英語では、『fifth floor』は日本語で言うところの『六階』を指します」
 なんともまぁ、情けない結末ではあった。つまるところ、僕の英語の偏差値の低さが問題であった。
 イギリスとアメリカでは、違う言葉が話されているのだ。
 英語では、日本語でいう「一階」を「ground floor」という。そして、「二階」から順に、「first floor」、「second floor」といった具合だ。つまり、「fifth floor」は六階。元は十七世紀にポルトガルで始まった表記の方法らしい。それが英国に輸出されたが、アメリカはそれより前に成立している国だから、アメリカ英語はこのポルトガル式表記方の影響を受けなかった。
「つまりこのビルでいうと『七階』ですね。ジャック氏が漢数字を理解していたならばこのビルのおかしさに気づいて、注釈を入れていただけたかもしれませんが」
「もしこのビルが八階建てじゃなくて、七階建てだったら『the last floor』になっただろうからそれでも迷いませんでしたね」
 つまり、地図付きの案内状が間違っていたのでもなく、僕が道を間違えたわけでもない。読み方を間違えていたのである。
 さて、あまりいつまでも感慨に浸ってはいられない。僕は鞄をひっつかむと彼女に深く頭を下げた。
「あの、本当にお手数かけました」
「いえいえ。こちらこそ面白かったです」
 こっちは面白がるどころではなかったが。
「まあ、ジャック氏もお待ちでしょうし、この辺りでお別れですね」
 またいつでも来てくださいね、との言葉を背に受けながら、僕は急いで七階に向かったのだった。