ケース・バイ・モノケース


 人から理由もなく嫌われるというのは大変堪えるものである。たとえば、何の気なしに使っていた口癖や手癖を気持ち悪いと否定されたときは、そんな些細なことで人に嫌われるのなら、他のところではもっと人に嫌われるようなことをしているんじゃないかという疑心暗鬼に駆られてしまうこともしばしばである。そしてそれらは大概自分では治しようがない。それゆえになおのこと一層手に負えないのである。ものの考え方や意見に相違があるとかなら議論の余地も残されているのだが、もっと根本的に『合わない』と言われているのも同じだからである。
 そして、同じだけ、いや、それ以上に怖いのが人からなんの理由もなく好かれてしまう、ということである。自分のなにを好きになられたのかよく分からないままだと、どうしても不安になるし、対応如何によっては相手を傷つけかねないのはその通りとしても、なんの理由もなく、特に異性に好かれている時は、なにか裏がある可能性が非常に高いのである。経験上の話だ。
 実を言うと、今年の春に同じようなことがあったし、夏にも似たようなことがあった。つまり、伊神さんの妹であるところの希ちゃん(という呼称が適切かどうかは分からないが)や、入谷さんの事件のことだ。希ちゃんの方はともかく、入谷さんの事件の方はいろいろとあってあまり思い出したい事件ではない。
 彼女たちが僕のことを利用したのは紛れもない事実であり、僕の方もまんまと利用されてしまったのは紛れもない事実である。思い出しても出るのは苦笑いばかり。そのうちにいい思い出に勝手に変換されていくのだろう。
 そんなこともあって、多少人からの好意には敏感になっていた僕だったが、そうそう僕に対して好意を持ってくれている(もしくは、そういう演技をして近寄ってくる)人間ばかり居るというのも確率論的に考えて考えづらい話である。
 だが、だとしたら今の状況はなんなのだろう。
「ねーねー、だから……」
 そう、明らかにおかしいのである。授業中にも関わらず隣席の女子が自分の机を僕の机にくっつけて、先生の目も気にせずにspontaneousという形容詞の響きの持つ性的さや、アメリカザリガニの驚きの来歴について熱心に語りかけてくるのは。

 新学期が始まってすぐの日、僕たちはどこか夏休みの気分を引きずったままそれでも律儀に我らが市立高校に足を運んでいた。当然だ。
 残暑が猛威を振るい、市立坂では九月だというのに逃げ水が見られた。ところどころこの校舎は溶けているんじゃないのか、いや僕の目がハレーションを起こしているだけなのかなどと虚ろになりがちな思考をどうしても巡らしてしまうこの暑さの中で、教員もまさかいきなり授業を始めるという気分にもなれないのだろう、大抵の教員は新学期最初の授業を、そのほとんどの部分を夏休みの出来事などを語ったり、生徒に語らせたりして徒にした。高校の二年生にもなって何をいまさらそんな暢気な、などと思われるかもしれないが、実際のところ、教員だって話を振られれば答えてしまわずにいられるような強靱な精神を持っていることは非常に稀であり、おまけにミノのように混ぜっ返すのが得意な奴が居たりすると、これはもう頭も口もゆるんでしまわない方がおかしい。我が市立は一応進学校ではあるはずなのだが、「一応進学校」の実体なんてこんなもんである。僕はそれらの話を聞く気にも乗る気にもなれず、ずっと窓の外を見て時間をやりすごしていた。雲の流れがやたらと遅い日だった。
 ただ、そうして一限から五限まで、一度体育の授業を挟みつつ、雑談ばかりの授業を繰り返していたため気づかなかったが、僕の筆箱もノートも今日学校にきてから一度も活用されていないらしいことに気がついた。学生の本分を全く果たしていない。苦笑しながら鞄から筆箱を出して、中身を見ると、はて、消しゴムが入っていないことに気が付いた。
 かといって別にミステリーでも何でもない、少しの逡巡で、昨日数学の問題集を解いていたときに解答編のところに栞代わりに挟んでおいてそのまま問題集ごと机の上に置き忘れてしまった記憶が甦ってきた。このパターンはすでに何度もやらかしているので、今更一通りの感想以外には思いつかない。
 しかし、困るのはここからである。なぜ昨日せっせと数学の問題集なんぞを解いていたかというと、今日の六限、つまり次の授業がまさに数学の小テストであり、その上数学の担当教員である真鹿国男先生は名は体を表すがごとく真四角人間で、夏休み開け初日だからといって小テストを実施しないなどという選択肢は取り得ないということが経験上分かりきっていたからである。数学のテストを消しゴムなしで受験するのはいささか心許ない。
「何、さっきから一人百面相ゲームでもしてんの?」
 なおも諦め悪く筆箱をぼんやりとひっくり返したりなどしていると、ぬっ。と僕の上に陰が差す。その声の主は、僕の隣の席に座る雨津紗英さんであった。彼女は身長が高い。彼女は持っていた『マイ・バースディ』とかいう雑誌を閉じて、自分の席に放りやった。
 どうやら先ほどからの苦笑や驚愕、思案、困惑の表情を全部見られていたらしい。それにしても百面相といった場合にはふつう一人であると思うのだが……。彼女には八面六臂の知り合いでも居るのだろうか。
「いや、家に消しゴムを忘れちゃったみたいで」
 次の時間のことを思い出したのか、納得顔で「ああ、それなら」といって、雨津さんは自分の筆箱から一つ消しゴムを取り出してこっちに投げ渡してくれる。思いの外速い消しゴムのスピードに、取りこぼして胸でキャッチする形になってしまった。情けない。
「どうせ二個持ってるしこの時間中は貸してあげるよ」
 素直に感謝することにした。
 ……別に、単に消しゴムを貸してもらったというここまでの流れで不遜にも好意を向けられたと勘違いしたわけではないことを一応断っておく。
 この雨津さんというのは、なかなかいい人である。クラスの女子グループでは、二番目に大きいグループの盟主的立場でいるようだ。あけすけというかざっくばらんな物言いと、それでいて細やかな気配りが姉御肌然としていて、同級生には頼りにされている。現に僕も、たった今頼らせて頂いている。
 貸してもらった消しゴムを見ると、MONOのごくシンプルで無骨ともいえるプラスチック消しゴム。なんだか雨津さんには合わないな、と思った。どちらかというと彼女は高校二年生になっても、半透明で、中にキラキラが入った、非常に消し辛い消しゴムを使っているような気がしたからだ。と思って彼女の机の上を見るが、彼女の数学の教科書の上には案の定そういった種類の消しゴムがあってどこか安心する。
 ……もしかしたら、MONOの消しゴムを貸してくれたのはわざわざ消しやすい方を僕に回してくれたのかななどと考えてしまい、なるほど細やかな気遣いとはこういうところに現れるものなのか、などと勝手に感心する。
 そこでチャイムが鳴り、同時に真鹿先生が教室に入ってくる。時間ぴったりなのは、チャイムが鳴るまで教室の外で待機しているからである。どこまでも真四角。

 案の定というべきか、真鹿先生は小テストを実行した。だが、それは十五、六分程度で終わる小小テストとでもいうべきもので、これなら昨日にわかに詰め込む必要もなかったかもしれない。どうやら、この後は通常通り授業を進めていくらしい。何人かから「えー、教科書持って来てないよー」との声が上がるが、真鹿先生はそれを視線で押さえる。「ないなら事前に借りておくかどうにかしておけ。……今日は隣のやつにでも見せてもらえ。他に忘れた奴が居ても同様だ」基本的に、理不尽に厳しい先生ではないのである。
 と、このあたりから徐々に雨津さんの様子がおかしくなってくる。
 まず、いきなり教科書を忘れたから見せてほしいと言ってきた。僕としても、消しゴムを借りている手前断るわけにはいかず、そもそも借りがあろうがなかろうが当然見せるにやぶさかでない。
「ごめんねー。まさか今日いきなり授業やるとは思わなくてさー」
 がたがたっ、と机をこちらに寄せながら雨津さんが小声で話しかけてくる。妙に早口なのが気になる。こちらからも少し歩み寄る感じに寄せた方がいいのだろうか、などと考えてる間に二つの机の間の溝は埋められた。僕の教科書を開いてその溝のあたりに置く。
 確かに、真鹿先生は先学期末に新学期最初の授業では小テストを行う、と言っていたので、教科書を忘れてしまっても無理はない。ただ、そういった柔軟な理論が通用する相手ではないのが問題である。
 僕も今日は授業に入るとは思っておらず、教科書を持ってきていたのはただ単純に幸いだったが、あいにく昨日は先学期の範囲の問題集ばかりで、今学期からの予習分はやっていない。当てられたら目も当てられないので、せいぜい今のうちに少しでも解いておこうか。真鹿先生は座席の端から端までやはり当然のように順番で当てていくので、僕が当たる問題はこれだろうなと目安を付けて解き始める。……ベクトルかあ、今学期で初めて触れる単元だけに解けるだろうか。
 と、考えていると、隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。雨津さんである。
「あはは、やっぱり葉山は絵上手いんだね」
 雨津さんは、僕の教科書の前の方のページを開いて、そこにあった僕の落書きを見ているらしかった。……ああ、消し忘れていたのか、恥ずかしい。人に教科書を見せるというのに、迂闊すぎた。そこには、ウサギにもアヒルにも見える例のトリックアートが、自分で言うのもなんだが結構真剣なタッチで描いてあった。
「おっ、これはあれか。見方を変えるとこの問題は解きやすくなるよという葉山なりの注釈の入れ方」確かに三角形の内角の和と三角比の置き換えを利用すると途端に解きやすくなる問題ではあるが。
「違うよ、ただ無意識で描いちゃってただけだと思う」
 照れ隠しに頭をかきながらそう言うと、雨津さんは目を見開いて大げさに驚く。
「ほー、ほー! 無意識ですとな。無意識でこれ描いちゃってたとな。さっすがだなあ美術部は」
 からかわれてるのか褒められてるのか。
「だったら美術部に入部してみる? こんなのよりもっと真剣に描いた絵も見せてあげられるけど」
 照れ隠しも相まって、些か早口に、かつ小声でまくし立てる。
「さらっと勧誘しない。っていうか葉山、結構ぜんぜん真面目に授業聞いてるってわけでもないんだね」
 不思議な副詞の用法をして雨津さんはなおも語りかけてくる。
「別に落書きしたりするくらいはみんなやるんじゃないの? ほら、ロック同好会のあいつなんかは、世界史の時間中に一曲分の歌詞書き終わったぜーなんて自慢してたじゃん」
 どうやら彼は、シャー・ジャハーンの生涯にインスパイアされて、どうしてもその時、その場で思いついた『生きたリリック』を書かざるを得なかったそうである。
「あーあー、そういやそんなこともあったね。なんだっけ、世界がどうたらとかお前がどうたらとか俺が死んだらお墓がどうたらとか、そんな感じの奴。痛痛しいよね。ってそうじゃなくて、葉山が真面目じゃないってのは、今の授業中のこと。私とずっとしゃべってるけど、だってほら」小さく前を指さす。「次当たるよ?」
 えっ、マジで? 幸い当てられた問題は易しいものだったが、真鹿先生はそれにいくつか条件を付け加えてさらに問うてくる。
 意地の悪い質問をなんとかやり過ごすと、雨津さんがまた小さく笑っている。そして何か僕に一言二言話しかけようとする。
「そこ、五月蠅くするなら席離せ」
 途端に飛んでくる叱責。授業が始まってからずっと喋っていたような気がするから当然かもしれない。もしかしたらさっきやたらとしつこく僕のところで粘っていたのは注意の意味もあったのかもしれない。
 首をすくめて恐縮の意を示す雨津さん。
 僕も注意された理由が理由なので、急に恥ずかしくなって反動的に静かになる。別に初回の授業から平常点を下げるような真似をすることもないだろう。
 ……しかし、またここから雨津さんの行動がおかしくなる。
 五分とおかずに、また僕の方を構ってきだしたのだ。
 もうこちらとしてはまたいつ注意されるんじゃないかと肝が冷える思いだったのだが、わざわざ話しかけてきてくれているのを無碍にするわけにもいかず、おまけに彼女の話は黙って聞き過ごせないものも多々あったので、自然と相手をしてしまう。マネはモネの真似じゃない、そもそも順番が逆だ!
 肩をこづかれたりしながら会話をしているうちに、共犯者意識みたいなものが生まれてきてしまっていたのもあるかもしれない。幸いなことに僕たちの小声スキルの高さからか、真鹿先生に注意されるようなことはなかったが、視線はときどき感じていた。
 授業も残りあと十分と言うとき、僕が彼女から借りていた消しゴムを勝手に手にとって弄びながら(どうせ使っていないのだが)、何か描いてよと仰る雨津さん。
 それなら、と僕はルーズリーフの一枚を借りて、雨津さんの簡単な似顔絵を描いてあげた。描いている途中で、いきなり似顔絵とかは踏み込みすぎたし失礼かとも思ったが、完成品を手渡したときに見せたあの喜びようからすると、どうも判断を誤ったわけではないらしい。
「ありがとー! すごいね葉山、文化祭でもお客さんの似顔絵とか描いてあげたらいいのに」
「そうしたいのは山々なんだけど……」
 そういうアイデアもあったが、いかんせん部員一人で展示とそれをこなすのは無茶である。
「でもこれはあれだね、ちょっとだけ私が可愛く描かれすぎてるね」
 ルーズリーフをぺらぺらと振って、冗談のように言う。の割には頬が意味深長に赤らんでいる。
 なんだかこちらまで恥ずかしくなって、何か気の利いたコメントでも出てこないか、と考えた瞬間、チャイムが鳴った。
 もちろん、真鹿先生はチャイムと同時に授業を終え、チャイムが鳴り終わると同時に教室を退出していった。
「葉山っ、これありがとうね。みんなに見せびらかしてくる!」
 とかなんとかいいながら雨津さんもさっさと席を離れていってしまった。消しゴムは忘れずに持っていったようなのでよかったが。少し取り残されたような気分だ。
 雨津さんが元に戻さなかったために未だ僕の机とくっついている彼女の席を見ながら、僕は考えていた。
 ……今日の彼女の行動はどこかおかしい。

「そりゃーお前……俺に聞くのも野暮ってもんだろう」
 放課後、今日一日授業を混ぜっ返すのにお疲れだったミノを捕まえて六限の雨津さんの不自然な行動について意見を求めてみた。どうやら演劇部は今日は顧問の先生が出張だかなんだかで、正式な活動ができないらしく、暇を持て余していたミノに僕が捕まったといってもあながち間違いではない。
 ミノは僕の話を聞き終わると眉根を寄せてそこを指で揉みしだきながら声を捻り出す。
「あーあーどうしてお前ばっかりそう女子からモテるのか! 教えてくれよ葉山センパイ。希ちゃんといい入谷さんといいうちの部長といい」
 おいおいちょっと待て。
「結論が早急すぎやしない? それに希ちゃんも入谷さんも」
「言い寄られたこと自体は事実だろ」
 ぐぅの音もでないが、腑にも落ちない。
「そ、それにしたって、ミノはそもそも秋野っていう彼女が居るんだから、別に今更誰かに好かれなくたっていいんじゃないの」
 ミノは机の下で携帯を弄りながら応じる。
「それとこれとは話は別だ。俺が他の人に愛を振りまくのは問題があるが、他の人から愛を振りまかれるのは問題ない」
 その考え方もよく分からないが。ミノは電話がつながったらしく、携帯を耳に当てる。
「あ、部長? ……そうそう、そうです。葉山が面白いことになってるんすよ、今すぐ来てください」
 慌ててミノの携帯を手ごと掴む。
「なんで柳瀬さんを呼んだりなんか……」
 なんでって、とミノは不思議そうに首を捻ってしまう。
「葉山に女の影が近寄ってるのにそれを報告しないのもどうかと思って。別にお前だって拒む理由はないだろ?」
 絶対に面白そうだから、とかいう理由で呼んだに違いない。柳瀬さんに知られるのは何故か恥ずかしいからやめて欲しいのだが。
 ミノの要請通り、そして僕にとっては残念なことに、柳瀬さんはすぐに来た。教室の後ろの扉をガラッと勢いよく開けて、まっすぐこっちに向かってくる。彼女は乱れた呼吸を整えて開口一番、
「よっ、色男!」
 違うだろう。肩をばしばし叩きながら笑うのはやめて欲しい。ただし、目が笑っていない。
 演劇部の自主練(という名目で駄弁っているだけらしいが)を抜けてまで駆けつけたという彼女に促されて、僕はさっきミノに話したような内容をもう一度繰り返す羽目になった。ミノに話すのと柳瀬さんに話すのとでは羞恥の度合いが違うのだが、少しでも曖昧にしようとすると柳瀬さんが伊神さんもかくやといった様子で突っ込んで聞いてくるので結局洗いざらい吐くことになった。しかしこの人は下級生の教室に居ることになんの違和感も感じないのだろうか。勝手に僕の隣、雨津さんの席に腰掛けてるし。
 柳瀬さんは途中まで身を乗り出して真剣な顔つきで聞いていたが、途中からなぜか不思議そうな顔をしてしまう。
 話し終えると、柳瀬さんはそれこそ考え込む、といった様子で足と腕を組んでしまった。
「ね、部長。面白いっしょ?」
 ミノの問いかけにも曖昧にしか返事しない。どうした、柳瀬さんまで態度がおかしくなってしまったのか。
「葉山くん、今の話に間違いはないんだよね?」
 身を屈めて、少し上目遣いで聞いてくる。
「確実か、って言われると少々不安ですけど……」
 ふうむ、と唇に指を当てて考え込む柳瀬さん。
「葉山くんの言ってたことが全部正しいとするとね、雨津さんとやらの行動には大きな矛盾が少なくとも一つあるの」
「矛盾、ですか?」
 予想外の展開に話が持っていかれる。
「そう。葉山くん、雨津さんに消しゴムを貸してもらったときに、雨津さんの机の上を見たら教科書の上にそのキラキラしたラメの入った消しゴムが置いてあったって言ったじゃない? そうすると、雨津さんは少なくとも六限開始前には教科書を持っていたことになって、葉山くんに借りる必要はないということになる」
 あっ、……そうか。自分で言ったことなのに、そんな矛盾点にも気づかなかった。
「だから、大方こいつと話すきっかけが欲しかったんでしょう。こいつが消しゴムを忘れた、貸してくれって言ってきたときに、今日がアタックチャンスとでも思ったんじゃないっすかね?」
 ミノがにやにやと下卑た笑いを浮かべてすかさず茶々を入れる。やめてくれ。
「でもそれだったら、今日の五限まではずっと授業にもなってなかったんだし、わざわざ先生の目が厳しい六限である必要もないじゃん。それに、僕がもし雨津さんが教科書を持っていたことを覚えてて、そこの矛盾に疑問を持つかもしれないっていうリスクを犯してまで六限である必要があったかな」
「リスクを考えて恋愛をする奴がいるか。迷いに迷ってたら五限なんかあっという間に過ぎちまって、六限しか残ってなかったのかもしれない」
 それだったら明日にでも回せばいいじゃないかとも思うが、今のミノにそんな正論が通じるようにも思えない。
 なおも思案顔の柳瀬さんが慎重に口を開く。
「それに、その雨津さんって子、先生に一度注意されても葉山くんに話しかけてくるのをやめなかったんだよね。普段からその……なんていうのかな、先生に注意されても授業中の私語をやめないような子だったのかな」 そう、そこが僕も一番気になっているのだが、彼女がそういった「先公の言うことなんてクソ食らえ」みたいな思春期特有の思想を持っているようには到底思えないのだ。
「違いますね」
「違うっすね」
 ミノと僕の台詞が思わず被って顔を見合わせる。ミノが先にちょっとした硬直から立ち直って口を開いた。
「いやだって、雨津っていったらああ見えて成績優秀っすからね。特別に優等生ぶってるわけではないけど、普段も授業中は大人しくしてますよ」
「葉山くんもそう思う?」
「ええ、大体は。これまで一学期の間席が隣で授業を受けてましたけど、五月蠅いと思ったことは一度もなかったような気がします」
 場が静まってしまった。ことの不思議さがミノにも柳瀬さんにも正確に伝わり始めたらしい。
 まだ勢力の衰えない蝉の鳴き声が静寂を塗りつぶしていく。
「ついでに聞くと、葉山くんはこれまで何回くらい雨津さんと喋ったことある?」
 あいにく僕は柳瀬さんと違ってそこまで社交的ではないので、クラスが一緒、席が隣というだけではそう仲良く会話を交わすような間柄にはならない。一応思い出し思い出し慎重に答える。
「せいぜい一日に一、二回ってところですかね。話の中身にしても次の移動授業の集合場所が変わったとか、六限のホームルームはなにやるんだろうねとかそんな程度で、あんなに長く喋ったのは初めてです」
 口をすぼめて、両手の人差し指で輪を描き始める柳瀬さん。愛に回数は関係ないんだよなどと、単純接触効果を無視した発言をするミノ。お前はいい加減に黙ってろ、抗議の意を込めて軽く頭をはたいておいた。
「つまり、こういうことだ。葉山くんは今日の六限に、突如として今までろくに会話したことのないような女子に無理矢理理由を付けてまで絡まれるようになった……」
 分かっていただけて何よりです。

 これはミステリーの様相を深めてきた。柳瀬さんの指摘を受ける前は僕も、ちょっとしたきっかけで雨津さんと仲良くなれたっていうだけのことなのかなあなどと解釈している部分がなかったわけでもないのだが、彼女が実は教科書を持っていたことなどを考えると、どうもそこには明確な理由が存在するらしい。
 あくまでも恋愛感情説を強硬に支持するミノを軽くいなしながら、僕らはちょっとした推理合戦をするといった体になっていた。
「何故、彼女は今日の六限に、そして葉山くんに、固執しなければならなかったのかが争点よね。……誰かなんかある?」
 僕は当事者というフィルターがかかっているせいか上手くものが考えられないし、ミノはそろそろ飽き始めている様子で、椅子を逆側から跨いで背もたれに顎を乗せていた。そんな僕たちを見て、柳瀬さんは自分でまず説を披露する。
「えーっと、じゃあ、そのいち。雨津氏は本日の六限に以前から計画していたあることを実行したが、それは人目から隠れて行われるべき行為であり、雨津氏は現場不在証明のトリックとして印象付けのために葉山くんを使った」
 いきなりトンデモ説である。
「つまり、アリバイ工作ってことですか?」
「……うん。そういうこと」
 自分でも自信がないのか、ちょっと恥ずかしそうに答える柳瀬さん。わざとらしく身をくねらせないで欲しい。
 いやしかし、そんな馬鹿な。
「だったら今日の六限に何か事件が起きてないとおかしいっすよね。なんか聞いてるんですか?」
 ミノが背もたれに顎をつけたまま混ぜっ返す。
「何も聞いてないけど……、もしかしたら何かあったかもしれない」
 そんな悪魔の証明みたいなことでは困る。いや、この話し合い自体が暇つぶしでしかないのでこの場にいる誰が困るわけでもないのだが、勝手に犯罪者扱いされては雨津さんも困るだろう。別に僕が肩を持つ必要もないのだが。
 ミノがかたかたと携帯を弄って、首を傾げた。
「いやー……でも、やっぱりなんもなかったっぽいですよ。twitterを今見てみたんすけど、市立クラスタは誰もなんも言ってねえっす。今から帰宅だの部活だのそんなのばっかり」
 そういって携帯の画面を見せてくる。そこにはごく一般的な高校生の放課後の思考回路が垂れ流されていた。
 それにしても、お前いつからtwitterなんて始めてたの? っていうかクラスタってなに?
「今じゃもううちのクラスでも大部分が始めてるぞ? ……あー、まあいい。で、クラスタって言うのは所属するグループごとにユーザーを分けたもので、まあ市立クラスタって言ったら要はtwitterのユーザーの中の市立生のことだな。うちの学校でtwitterやってる奴は殆どリストに入れてる自信があるから、自分で言うのもなんだが信憑性は高い」
 へえ、なるほど。僕もそういったものを始めた方がいいのだろうか。必要性を感じなかったから今まで全く食指が動かなかったのだが。そういえば亜理紗も始めているらしい様子はあった。柳瀬さんもやっていたりするのだろうか、いや、こう言ったサービスはあまり似合わないな。
 しかし、市立クラスタなんてものがあるのか。僕の知らないところでもしかしたら僕が話題に上ることもあり得るのかもしれないと考えると空恐ろしい気がしたが、それは日常会話でも同じことだった。ひょっとしたら少しサイバーフォビアの気が入っているのかもしれない。地図検索とかだったらよく使うのだが。
「うーん……じゃあ、ほかに何かもっともらしい理由ってある?」
 柳瀬さんが粘り強く会話を進めようとする。こんな下らないことでそこまで熱心にならなくてもいいのではないかと思うが、それを進言する勇気は湧いてこない。
「じゃあ、こういうのはどうでしょう。雨津さんはなにかしらの理由で僕に恨みを持ち、その報復として僕が先生に注意されることを期待して、僕に授業中に熱心に話しかけた……」
 柳瀬さんがじとっとした目つきでこちらを眺めてくる。足を組み替えて一言、「葉山くん、発想が最低すぎ」
 うっ、でも可能性の一つとして……。
「大体、なんでそんなに自虐的に考えるの? なんか悪いことした?」
 当然のことながら、こころあたりはない。電車の中でマンガのページをめくるのが遅かった記憶もない。
「それに、報復するにしたって、もうちょっとうまいやり方があるよね。自分が巻き込まれる必要はない」
 私に頼んでくれれば、いくらでもなんでもしてあげるのになどと恐ろしいことを口走り始める。
「八方塞がりっすね」
 ミノが足を前に投げ出してぼそりとつぶやく。まだ二つしか意見は出ていないのだが、というものの実際僕もこのままじゃ結論はでないんじゃないかと思っていた。なんといっても手がかりが少なすぎる。
「じゃあこういうのはどうだ。雨津さんの真の目的は真鹿を怒らせること自体にあった」
 今とっさに思いついたみたいなことを……。
「なるほどね。それなら六限でなければならなかった理由にも説明が付くけど。でも真鹿先生を怒らせて何がしたかったのかは分からない」
「それに、真鹿先生は授業中に私語の多い生徒が居ても、注意することはあっても怒ったりはしないと思う」
 ミノはやはり大して自説に愛着があるわけでもないらしく、手をひらひらと振って柳瀬さんと僕の批判をかわした。「やっぱり葉山モテモテ説が一番面白いっすよ」
 面白いかどうかじゃなくて……。やはりミノの言うとおりに八方塞がりなのだろうか。どうも根拠のない推論を立てているだけで、ここで諦めるのは時期尚早な気がする。
 それに、こんな宙ぶらりんな状態で場が自然解散したら、この後美術室でやる予定のデッサンの練習も身が入るかどうか分からない。だから、というわけではないが、
「伊神さんに電話してみようかな……」
 自分でぼそりと呟いて、今回に限ってそれだけはないな、と思った。何よりも伊神さんが興味を持ちそうには思えない。最終手段に取っておくべきだろう。
「あー、もう。葉山くん、ほかに何か手がかりとかはないの?」
「他に、ですか? たとえばどんな……?」
 そんなの知らない、とでも言いたげに肩をすくめる柳瀬さん。
「あ、でも。今柳瀬さんが座ってる席、それが雨津さんの席ですよ」
「マジか」それを聞いた柳瀬さんが、机のなかに躊躇わずに手をがさっと突っ込む。中に入っているものをどんどんと出していくので、凝視はしないようにする。
「置き勉の類が全くないね。授業中も真面目ってのは本当そう」
 人の机の中身で勝手にプロファイリングを始めるのもかなり不躾だが、そもそもこれまでも勝手に行動から推論を巡らせたり、多分に失礼ではあったので五十歩百歩だ。
 ん? と柳瀬さんが突然不思議そうな声を上げる。
「雑誌が入ってた」
「雑誌くらい読むでしょうよ」
 柳瀬さんがそのタイトルをしげしげと眺める。さっきも彼女が開いていたその雑誌の名前は、『マイ・バースディ』。中身に付いては寡聞にして知らないが、どうやら表紙にある煽り文などを見るに、ファッションやらコスメやら、少女向けのおまじないやら、ミドルティーン向けの雑誌のように思える。雨津さんが読むとしたら少々子供向けに過ぎるというか、
「雨津さんって妹とか居たっけ」
 すかさずミノが答える。
「一人居るな。来年からこの学校に来るかもしれないとか前に雨津が言ってた」
 なら、妹の雑誌を暇つぶしに持ってきたとしても不自然ではないか。どうやら手がかりになりそうもない。
「やっぱり、明日になったら雨津さんに直接聞いてみようと思いま……」
 諦めて、この辺りで柳瀬さんにも演劇部の自主練に戻ってもらおうかと思ってそう言いかけた矢先、
「分かった!」
 突然顔を輝かせて机に手をついて立ち上がる柳瀬さん。勢いに押されて僕は少し身を引いてしまう。
「ねえ、雨津さんって部活なにやってるの?」
「手芸部っすよ」
 またもやミノが間髪入れずに答える。ミノがこれほど雨津さんについて詳しいのは一般的な同級生レベルなのか、判断に困る。
「じゃあまだ学校に残ってるはず。ちょっと確かめたいことがあるから話を聞いてくる!」
 さっきまでの屈託はどこへやら、明確にやることができた柳瀬さんは途端にいつものエネルギーを取り戻す。
「え、え、分かったんですか?」
「うん。伊神さんみたいにぴったりとはいかないかもしれないけど、それも今から確かめてくる」
 それなら僕も付いていった方がいいのだろうか。ミノはすでに腰を浮かせて荷物をまとめ始めている。従者根性がすっかり身に付いているのは流石と言うべきか。
「葉山くんと三野はそこに残ってて。こっから先は女子だけの話だから」
 中途半端に腰を上げていたミノと僕はまたもや顔を見合わせて不可解な表情を互いに見せ合った。

 意気揚々と手芸部部室から帰ってきた柳瀬さんを見て、どうやら彼女の仮説は合っていたらしいことを知った。
「理由が理由だけにね、なかなか渋って教えてくれなかったんだけど、勝手に鞄を改めさせてもらったら案の定出てきた」
「何がですか?」
 柳瀬さんはここでいたずらっ子の見せる笑みを浮かべて「葉山くん、誰にも言わないって自信、ある?」
「そりゃあ、まあ。でも僕はともかく、ミノは絶対に口外しますよ」
「不肖三野小次郎、部長の言いつけを破る男ではない」
 妙なモーションを付けて朗じるミノ。
「って言ってるし、まあいいかな。雨津さんも葉山くんが真相を知りたがって夜も眠れなくなってるって言ったら、苦笑して教えてもいいって言ってたし」
 いや、今日の六限から今まで一度も夜は回ってきていないが。
「さて、どこから話したもんかな。結局気づいたきっかけになったのはさっき机の中に入ってた雑誌なんだけど」
「マイ・バースディでしたっけ」
「そうそう。それ。葉山くんは知らない? 妹さんとか居るんでしょ?」
「妹の読んでる雑誌までは……」
「ま、そんなもんか。ちょっと前に廃刊になっちゃった雑誌なんだけどね、『マイ・バースディ』、まあ通称マイバっていうんだけど、それのウリはなんといっても女子向けのおまじないの記事なの」
 廃刊していたとは予想外だった。でもまた、なんでそんな昔の雑誌を。
「なんでも机の中から見つかって、懐かしくなってみんなに見せようと思って持ってきちゃったんだって」なるほど、過去の雨津さんの持ち物だと言うのなら、年齢に合ってないのは納得できるが。「で、肝心なのはおまじないがメインって部分。そしてこの号の特集記事は、なんだと思う?」
 なんだろうか。どのような内容の記事が授業中の私語を助長するのか。
 ミノが黙って雨津さんの机の中から先ほどの雑誌を取り出す。ぱらぱらとめくって、
「消しゴムを使ったおまじないっすね。そういや中学のときとか流行ってたかも。緑色のペンで消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にも見られずにそれを使いきったらその恋が成就するって」
 まさか。
 柳瀬さんが大仰に頷いて僕の独り言の先を続ける。
「そう、まさにそのまさか。雨津さんはその記事を読んで、つい消しゴムに好きな人の名前を書いちゃったの。高二にもなって笑っちゃうでしょう? ってこれは、本人が言ってたんだけど」
「で、そうしたことを忘れて、その名前入りの消しゴムを僕に貸してしまったと……」
 なんだ、そりゃ。真相のあまりの牧歌的な可愛らしさに肩の力が抜けてしまった。アリバイ工作説とかはいったい何だったんだ。
「そういうこと。で、小テスト中にそのことに気づいて、焦った雨津さんは教科書を忘れた振りをして葉山くんに残りの授業時間の間ずっと絡みついたってわけ。ノートを取らせなければ消しゴムを使うようなこともない」
「でも、MONOのごく一般的な消しゴムで、スリーブがついてるて、よほどのことがない限り外そうと思わないはずですけど」
「不安になっちゃったものはしょうがないんじゃない? それで、葉山くんに自分の絵を描かせてる間に消しゴムを回収して自分の手元にいち早く置いておきたくなったんだろうし。あ、葉山くん今度私の似顔絵も描いてよ雨津さんが描いてもらったの見たけどすっごい上手だった」
「やぶさかではないですが……」
 すべてのつじつまは確かに合う。あっと言う間に終わった謎解きだが、ミノはそれなりに満足しているようだった。しきりに雨津さんの見せた意外な子供らしさが可愛いだの萌えだのそういった妄言を吐いている。秋野に聞かせてやりたい。
 しかし、柳瀬さんの話を聞いて若干気になることがある。
「え、じゃ、じゃあ、さっき鞄を改めたって言ってましたけど、もしかしてその消しゴムも見ちゃったんですか?」
 名前を見られたら恋愛が成就しないんじゃなかったのか。
 すると柳瀬さんは申し訳なさそうな表情で、
「あいにくうちの学校のローカルルールじゃそんな見られちゃいけないなんてルールなかったしね……。申し訳ないことしちゃったかな。……でも、私的には成就してくれなくて結果オーライなような」
 多少意味のわからないことを小声で付け足す。
「それで、誰の名前が書いてあったんすか?」
 ミノが「アホ面」と書いたプラ板を首から下げてやりたくなるような顔をして問う。おい、それはダメな質問だろう。
「……、聞きたい?」
 口角を上げて問い返してくる柳瀬さんの目がミノではなく真っ直ぐ僕を捉えていてたじろいでしまう。
 ここは、どう答えておくのが正解なのだろうか。すっかり鳴りを潜めたセミに対して僕は的外れな憤慨を覚えていた。