1.-こんな天気だからもう山へは行かない-
しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん。さきほど降り出した雨は、私たちがバスに乗り込むや否や激しさを増していき、あのままハイキングを強行していたらどうなったことやらとバスの中では安堵の胸を撫で下ろすものが一方、雨具を装備すればあの程度は我々の行軍を妨げるものではないと主張するタカ派男子も少数。どちらにしろ本日予定されていた私たちの学年の山中ハイキングは集合場所であるA山麓に集まった時点で中止されているのであり、彼らの主張は戦略的撤退を知らない阿呆のものとして周りに認識されたのであった。
九月も下旬、そろそろカーディガンやらセーターやらを着る生徒が多くなる季節。流石に今日は山中ハイキング(有り体に言えば登山だ)の予定だったので、みんな活動的な出で立ちだが。
私としてはこのままこれ以降の授業がカットになるので願ったり叶ったりである。そもそもこんな雨の多い季節にハイキングを計画する方がおかしい。秋雨前線万歳、台風と重なってくれると尚よし。そういえば、長雨のことを淫雨とも表現するらしい。やらしい。「いんう」というのは如何にも母音や撥音が多く、音便を起こしても良さそうなものだが、使用頻度が低い言葉はそうでもないらしい。
おととい配られたペラ紙一枚の行程表をよく確認していないので知らないが、おそらくこのバスは学校にとんぼ返りしてそこでめでたく解散、哀れ秋雨に撹乱された蜘蛛の子は散り散り巣穴へ戻るという算段である。前日に友人と「こうなったらいいのにねー」と話していたシナリオ通り。私、大勝利。
「それで、あいつのはめっちゃ酸っぱいんだって。苦いとか甘いとかそういうのじゃなくて酸っぱいんだって」
「っていってもアンタ、前はしょっぱいって言ってたじゃない」
「たぶんそれはバイオリズムってヤツよ」
「あらやだいやらしい」
「いやらしい」
さすがに朝も十時、しかも今日の活動ときたら学校に来てバスに乗っただけという中学二年生たちは眠気を感じないらしく、バスの中はそれなりに騒がしい。
目の前でもちょうど、脳みそとろけたギャル風の二人が真昼間から人前で猥談に勤しんでいる。いや、もしかしたら猥談ではないのかもしれないが……。
車中の喧騒とはお構いなしに、私は窓越しに雨と会話するのよ、なんて斜に構えるのには多少センチメンタル分が不足しているので、私は真横に座る友人のほうに目線をやった。が、そいつはそいつで窓越しに雨と会話しているようなので放っておいた。朝からセンチメンタル分全開か。
学校までたかが三十分ほどの行程である、暇をつぶそうと考えているうちに学校に着いているに違いない。
「でさぁ、その苦い君がさぁ、最近アタシに冷たいのよね」
「苦い君って。アンタ彼氏のことそんな風な綽名で読んでるから嫌われてるんじゃないの」
「最近別に好きな人が出来たみたいなんだよねぇ。アタシを差し置いてそんなにいい女なんてこの学校にいると思う?」
「少なくとも私とかどうよ」
私の前で猥談をしていた二人組の会話の事情が変わった。続けて?
しかしこうやって私みたいに暇をつぶそうとか考えることもなく、友人をひっつかまえて猥談でも恋バナ(笑)でもなんでもできる人間にはあこがれる。ある程度までの面の皮の厚さは誇るべき財産である。面の皮はセンチメートルで量り売りしていないので、せいぜいストッキングの生地程度の面の皮しかない私は羨ましい。40デニールでもあれば十分なのだが。
「やっぱり絶対アイツ音楽の水島先生のこと好きなんだって。水島先生がピアノ弾いてるときにアイツが注いでる目線のいやらしさときたらアタシなんて」
「あー水島先生ねぇ……。若いし可愛いし仕方ないかもね。アンタ絶対負けたよ、あきらめな。私もあの手はいやらしいと思う。弾かれてみたい」
「キモっ」
キモっ。私の隣にいるこいつもピアノが弾ける(、というかぶっちゃけ水島先生より上手い)のだが、それでも弾かれたいとかは考えたことがなかった。というか弾かれるってどういう状態だ。ちなみに私はよくアイツの言行に引いている。
水島先生は、来月ピアノ演奏会を控えていてた。音楽室にもポスターが貼ってあったので知っているのだが、参加演奏者が多く、ある種フェスティバル的な演奏会なので、個々の紹介スペースが狭く、曲目は何を演奏するのかは知らなかった。私はそれを聞きに行こうと思っていた。何故過去形かというと、今月の頭に水島先生は右手の指を骨折していたからである。直接聞いたわけではないが、出演は絶望的だろう。
一瞬、前の二人も会話をやめる。まさか盗み聞きがばれたわけではあるまい、にしてもスレた餓鬼共である。
雨は一層激しさを増していた。車軸を流すように、とは雨が降る様子に使う表現らしいが、車軸を流しているのは一体誰なんだろうか。居るとしたらよほど歪んだ性癖の持ち主である。英文の「It rains today.」というのは、rainが「雨を降らす」という自動詞で、itがゼウスのことを指すという話は聞いたことがあるが。長阿含経が出典だからインドの神様かな。阿含経が無視され、法華経のような仏典がもてはやされるわけとは! みたいな話にはならない。
そういえばうちで飼っている犬は大丈夫だろうか。小屋には入れてあるがこれだけ強いと中まで降り込んでこないとも限らない。
「でさ、そういえばその苦い君が」
あまり沈黙は長く続かなかった。
「アンタ本当に苦い君の話しかしないわね」
「……。でね、彼が言うことには、この前文化祭の準備で夜まで残ってた時に、誰もいないはずの音楽室からピアノの音が聞こえてきたっていうの」
「はぁ? いきなり話が飛んだわね」
「今月頭の水曜日、男子のグループで看板作ってた班だけ残って、別館の図工教室で作業してたじゃない? あのときに下校時間を無視しまくって作業してたらしいんだけど」
まぁ祭りは本番より準備が楽しいものであるから仕方がない。つい先週、ここで彼らが準備していたという文化祭があったのだが、私はかけらも楽しくなかった。というか点呼を取ったらそのまま家に帰った。帰宅部でなにか出店でもやればよかったのだろうが、あいにく帰宅部連中は個人の尊重と不干渉政策を何より大事にするシャイボーイズなので。ボーイズアンドガールズ?
「そのときに、大体八時ちょうどくらいだっていったかな、音楽室のほうからピアノの音が聞こえてきたんだって。当然、こんな時間まで生徒が残ってるのもおかしい、音楽科の教員だってすでに帰ってるはずだって言って、彼は仲間と一緒に音楽室まで誰が弾いてるのか見に行ったらしいの」
又聞きの盗み聞きの私でも苦い君の思惑が手にとるようにわかる。あこがれの先生にあわよくば会えないかという算段であろう。まぁ、中学生男子の思考回路なんてそのレベルなんだろうか。それにしても音楽科の教員の下校時刻を把握しているあたり苦い君はすでに相当ストーカーの要件を満たしていると言える。
「で、彼らが音楽室の前まで行くと、そこには誰も居ないのはずなのにピアノの音が流れ出してくるではないですか!」
身振り手振り大きく話すビッチ。
「……。自動ピアノとかじゃないの」
「どこのどいつが自動ピアノなんて使ってガキを驚かすのよ」
その通りである。この腐れビッチもなかなかに常識的だ。
「びっくりしちゃって彼も彼の仲間も逃げ帰っちゃったらしいんだけど、これと同じような話をいろんな子から聞くのよね。これってつまり幽霊じゃないのかしら!」
な、なんだってー。
バスが学校にたどり着いた時でも、雨は全く降りやんでいなかった。バスの中で先生が投げやりに点呼を取り、我々は大海原に解放された。哀れかな傘を持たぬ一部生徒(私を含む)はとりあえず学校の玄関に逃げ込む。ショパンの雨だれなんて目ではない、我々に明確な敵愾心を持って襲い掛かるサムシングエルスである。これ絶対秋の雨の降り方じゃないよね。台風が混ざったのかしらん?
傘を持っていない私はこの学校で雨宿りがてら暇をつぶす必要があった。とはいってもまだ私たちの学年以外は普通に授業をしているのであまり騒ぐわけにはいかない。
この学校には本館と別館があり、その間を渡り廊下が繋いでいる形だ。上から見ると、ちょうどアルファベットのHのように見えるはずである。少しだけ別館の方が横幅が短いので、漢字の工ともいえるかもしれない。ゴシック体だとほとんど差が分からないが。
旧校舎とでも呼ぶべき、別館のほうには音楽室があり、そこなら周りとも隔離されているし、今日バスで私の隣に座っていたアイツもいるだろうということで向かうことにした。
補強工事か何かはわからないが、窓に斜めに鉄骨が埋め込まれ、小綺麗ながらもどこかコンクリートの固まりといった風貌の本館に対し、別館は建てられた当時の様子をそのまま残していて私は結構好きだ。ボルトで締められていて使えないとはいえ、ダストシューターがあるような校舎、今時みたことある? リノリウム張りの教室、高さのそろっていない机や椅子、新参の本校舎に遮られて光の届かない家庭科室、やけに急勾配な階段、全てが古めかしい。ただ、直立しない譜面台は取り替えてほしい。
音楽室には案の定アイツがいた。いつものようにピアノを弾いているが、曲はアルカンの「鉄道」。名曲というわけでは全くないが、右手も左手も休むことのない16分音符の連続。奴はいつも基礎練代わりにアレを弾く。……そういうのが昔の私には辛かったけど今はもう大して気にしちゃいない。コンプレックスに思うにしたって比較する対象がヒドすぎる。
濡れたメガネをシャツの裾で拭きながら、私は夢中でピアノを弾くアイツに話しかけた。うへぇ服まで濡れてやがる。途中で演奏を乱雑に切り上げて、私の方に向き直る。
「あんたはホントにいつも行動が早いわね。擬音で表すならカサカサって感じ」
「先回りして待ってないと貴女が不安がるでしょ」
馬鹿にしないでいただきたい。
さっきから私がアイツアイツ言っていたこいつの名前は藤代都都。都都とかいて「みやこ」と読む。そのままだ。っていうか一個でいいじゃん。一人妹が居て、こいつの名前は里里と書いて「さとり」と読むらしいので、おそらくその下に子供がもう一人できたら「ベッドタウン」とでも名づけられるに違いない。さらに下が出来たら「文教地区」とかでいいだろう。「学園都市」でもいい。
社交性より射倖性が高く協調よりは凶兆といった感じのこの子は畢竟卑怯に育った。私以外に友達が居ないんじゃなかろうか。いらんこと言わせたら片岡直温財務相レベルだしいらんことやらせたらザクセン選帝侯のゲオルグにも勝る。いや、多少言い過ぎた。
実は結構な旧家の出らしく、家は金持ちである。土地を持っていると強い。なんでも、その祖先を遡ると臣籍降下された武家の名門に繋がるらしいが、これは日本の中世に流行っていた家系図の書き換えによるものだろうと確信する。
そして前述の性格はおそらくこの育ちに憑拠している。自宅に防音設備付きのグランドピアノ部屋があると聞いた時には我ながら理不尽だとは思うが、許しがたいものがあった。スタインウェイらしい。ファツィオーリとかじゃなくてよかった。そのゆるふわウェーブで愛されガールなヘアーも財力なのかァ!
「で、あんたも傘を忘れたクチってわけ」
都都の少し水滴の残る髪を見て私は言う。今は、『忘れられた映像から』、『嫌な天気だから「もう森へは行かない」の諸相』を弾いている。そういう洒落なのか。
都都の髪色は、染めているわけでもないのに明るい茶色をしていて、大人びた髪型と相まってぱっと見ではとても中学生には見えない。これでもう少し身長があれば大学生と言われても信用してしまうのだが、あいにく都都は平均を大きく下回る背丈で、平均よりやや上を行く私と並ぶとシルエットがすこし残念なことになる。
「えっ何それさっきのカサカサ発言とかけてるの? やだなぁそういう分かり辛いギャグはおじさんにはちょっとハイレベルすぎるかなぁ」
「黙れ。壁に掛けられているモーツァルトもハイドンも滝廉太郎も貴様を見ているということを忘れるんじゃない」
「そもそもそのモーツァルトが駄洒落とスカトロにまみれた書簡を書いているわけなのだけれど……」
まぁ有名な話だが。当時のヨーロッパではそういった下世話な書簡を送ることが親愛の情の現れと見なされていたらしいが、下水道もなく町中に糞尿が垂れ流されている時代ならさもありなんとも思わなくもない。中近世ヨーロッパに憧れを持つ者たちには、日本の方が格段に綺麗だったと言ってやりたい。
こんなアホみたいな会話をしている最中も彼女はずっとピアノを弾いている。私は結局最後には相手にされないので、その辺の椅子に腰かけて文庫本を取り出して読む。いつもの光景だ。
私は都都に対してバカにしたような態度を取るし、実際バカにしてはいるが、こいつのピアノの腕前だけは確かなのだ。練習を邪魔してはいけないと思う控えめな乙女心が私にもある。それにほら、音楽がそこにあるなら黙って聞くのが礼儀ってもんでしょうよ。
とはいっても練習は主に家の立派なピアノでやっているらしく、学校のヤマハのピアノではたいてい遊んでいる(というか手遊んでいる)のだけれど。大抵のピアノを弾いている子は、というか親に習うことを強制されているような子供はピアノに、練習に辟易しているものだろうけどこいつに限ってはそんな様子もなく、私としてはもっと他のことにも興味を持ってもらいたいなぁなんていう親心。もちろん子知らず。
そういえば、先ほどの腐れビッチが言っていた夜中に独りでに鳴るというなにやら楽しげでやんちゃなピアノとはこの子であったか。こっちの音楽室にピアノといったらこの子と音楽準備室に置いてあるアップライトしかなく、この子であることに間違いはなさそうである。そんなやんちゃな子には見えないんだけどなぁ。
ずいぶん年季の入ったヤマハのピアノである。あまり調律も正確とは言えず、特に高音域は聴いていて多少不愉快だ。有り体にいえば音痴。
これがベーゼンドルファーとかだったら幽霊が憑いたとしてもなんら不思議はないのだが(偏見)。
私は幽霊など当然信じないタチである。おそらくだが都都も全く信じてないだろう。
それならば余計、このピアノが深夜に鳴りだしたというのは気がかりである。
都都はほっといて少しだけこの件について考えてみることにした。
理由として考えられるのは、
1.自動ピアノであった。
2.誰かが弾いていたが演奏者が小さくて苦い君たちには見えなかった。
3.レコーダーか何かを鳴らしていた。
4.苦い君たちの頭がおかしい。
5.腐れビッチの頭がおかしい。
くらいのものだろう。
まず一つ目はどうだろうか。自動演奏ピアノでも100万は優に下らない。機構はピアノのそれそのままなのだし、それに加えて自動演奏という機巧が加わっている分、アップライトでも相当なお値打ちという可能性すらある。もしこの件が人為的なものであったとして、このようなことのためにそのような大金を出せるだろうか。元から置いてあったこのピアノが自動演奏ピアノであった可能性も考えられるが、そしたらすでに都都が指摘していて然るべきだ。却下。
二つ目は苦い君を直接問いただしてみないとわからないが、そこまでの間抜けさんではないと信じている。信じるに足る考証要素に欠くが、流石にもう中学生である。男子の成長が女子に比べ著しく遅いのは明らかではあるが。
三つ目は一番可能性が高そうである。ただ、音楽室を探し回ってみるが、どこにも音楽を再生できるような装置は残されておらず、もし使われたとすれば、回収されたものと見える。後は、授業の時間に教員が使うような立派なオーディオもあるが、普段はカギがかけられていて使えない。カギは音楽準備室に保管されていて、その音楽準備室は音楽科の教員が帰宅するときに施錠されてしまうので、このオーディオを使ったとなると、犯人は音楽科の教員ということになる。その場合一番怪しいのは水島先生だが……。美人とはたいていの場合悪人である。
四つ目五つ目は相当に信憑性が高いが、あまり面白い仮説ではないのでやはり却下。
「ねぇ、さっきからピアノの周りをうろうろして何してるの?」
少々投げやりに「猫踏んじゃった」をジャズアレンジして弾いていた都都が訊いてくる。ジャジーなステップでキャットをステップ。妙な歌詞をつけて歌うんじゃない。
見てわからぬかね現場に残された犯人の痕跡を探しているのだよ。
「何を言ってるのかしらこの子は」
えー? いちからせつめいしないとだめか?
「ダメだわ」
かくかくしかじか。つのじかへらじか。実は私は物事を説明するのがとても下手なのだが(とにかく一つのものに集中できずに話が七変化する。駅前のスイーツの話をしていたはずが三陸海岸線のフラクタル構造について話していた、等々)、こいつは何も言わずに聞いていてくれる。育ちがいいからなのか本当に人がいいのか(認めたくないな……)。たいていの人はあっちゃこっちゃに行く私の話に、口には出さずともイライラとしているのが分かるので、あまりこいつ以外には話しかけない。かけられない。
「はー……。なるほどね。つまり悪霊怨霊魑魅魍魎の類がこの音楽室に1100年前の平安京からバックトゥーザフューチャーしていて、奴らはこの音楽室を我が物とせんために悪評やら流言飛語やらデマゴギーやらを垂れ流して人が寄り付かないようにしている、そういうわけね」
「そんなことはかけらも言っていない」
そりゃたしかに私の説明も下手くそだっただろうけど。
「概ねそんな感じでしょう? その魑魅魍魎の選曲がなんだったのかとかは聞いてないの?」
「さぁ、それは聞いてないけど……」
そもそも情報源が盗み聞きである。
「まぁ、その、何? あんたもあんまり長いことピアノ弾いてないで、早く帰りなさいってことよ?」
これも一種の親心である。
「はいはいそうですねー。っていうかもう雨上がってるじゃない、一緒に帰ろっ?」
「それは構わないけど、なにかしら、もしかして魑魅魍魎が怖くなったの?」
「そんなわけないじゃない。そういう鵺的なアレは大好物よ。ただ、今回のことからはおばけ的な要素はあまり感じないわ。いいとこ子供の悪戯ってところよ。あまり私が遅くまで残ってても仕込みに時間を取れなくなるだろうし、早く帰ってあげたほうが魑魅魍魎さんのためね」
なんだ、やっぱり人がやったんだと思ってたんだ。私もそう思っていたよ、ほんとだよ。幽霊なんて嘘さ。
玄関を出ると雨上がりの鳥の声(名前がわからないが、やたらシンコペーションなリズムをポリリズムしてくるアイツらのことだ)、ケーキみたいな雲にナイフを入れて差し込む日光、これはまぁ悪霊怨霊魑魅魍魎さん達も死ぬってもんだよ。圧倒的リアリティの前に時代遅れの百鬼夜行は飲み込まれていく。
次の日、私が朝、学校で一限目の授業の準備をしていたときに、都都が目を爛々と光らせて昨日の話を持ち出してきたことには驚いた。どうでもいい話だが、腐乱死体の腐乱は、もとは腐爛と書いていた。そんなことを思わせる目つきだった。
私としては、昨日の幽霊ピアノ云々の話はアイツとの世間話のタネに使ったことでその有用性は薄れて、脳裏にもかすらなかったのだけれども。鮮度の落ちたものが前にでてくるのはせいぜいがスーパーマーケットだけである。牛乳とか。奥の方からとっていくのはなんだかみっともないような気もするし、かといって古いと分かっているものをわざわざ取るのも馬鹿らしいのだが、ここで素直に奥の方からとれるようになったら大人の階段を一段上がったことになるんだろうか。こんな逡巡がいちいち馬鹿馬鹿しいのは百も承知二百も合点。「その、なんだっけ? 苦い君? から話を聞いてきたんだけど、」
「すごい行動力だわね」
自慢じゃないが私は知らない男子になんか話しかけられないぞ。おまけにナニがだとは分からないものの苦い系男子になんてとてもじゃないけど乙女が廃る。
「どうやら、苦い君たちもちょっとは調べてたみたいで、ここのところ、毎週水曜日にそれが起こってるみたいなのね」
ほう、苦い君もそこまで臆病ではなかったか。しかし、こうまで中学生に出し抜かれる警備体制のほどは如何に。ん、水曜日?
「今日が何曜日だか分かる?」
……、水曜日ですけど。いやな予感がする。
「今日は私達がこの件について追ってみない?」
バンと机に両手を付いて言い放った。
これである。
余計なことをさせたら三国一、それがこのお嬢様だ。
「苦い君達はどうするのよ」
「あら、非常に友好的に捜査を譲ることを認めてくれたわよ。警察もののドラマをみてると『これはワシらのヤマじゃけん、お主らはちーっと黙っててくれんかのぅ』位のノリにはなると思ってたのに」
苦い君達にはプライドもなければ特に警察機構の中での昇進もかかっていないし、ぶっちゃけ特に興味がなかろう。
「もしも私がアンタに着いていくのがイヤだといったら?」
「あら、あなたが私を見捨てられないのは分かってるわよ」
「じゃあ、もし私のお母さんが私に深夜の外出を許可しなかったら?」
「それこそあなたは母上を裏切ってくれると信じてるわよ」
むぅ、すごい信頼のされようである。都都の場合恐らく自尊がたぶんに含まれるが……。
「とにかく、私が言いたいのは、今日の午後七時三〇分に正門前に集合、それが第一よ」
結局私の意見など聞かない奴である。気兼ねしないのは結構なことではあるが。
「で、第二は持ち物とかのこと。とはいっても必要なものは私が持ってくるからあなたはそう深く考える必要はないわ」
探偵七つ道具とか持ってくる気だろうか。指でこすると煙が出る紙とか。
「夢が膨らむわね、深夜の学校よ。こんなにお誂え向きなステージはないわ」
指を一本立て(そのジェスチャーになんの意味があるんだ?)、機体に目を輝かせている都都。
何にお誂え向きなんだ。何に。結局夜の学校で遊びたいだけなんじゃないか。
というより、恐らく都都はこの事件に付いて私の知らない情報を得ていて、それを使えば幽霊ピアノの正体を暴けると考えているのだろう。もしかしたらすでに真相を知っているのかもしれない。そうでもなければ昨日の興味なさげな態度との落差の説明が付かない。
そこに隣から男子の声が割り込んできた。
「君たちが夜何をしようと勝手だけどさ、あんまり俺の目に耳に付かないところでやってくれないかな。じゃないと俺は今すぐにでも守衛のおっさんのところへ行ってこのことを告げ口しないといけないことになる」
今、横から話に割って入ってきたのは菱谷伊万里君。何ヶ月切ってないんだよみたいな髪の毛で目が隠れてしまってて、陰気な印象をどうしても見る人に与える。どうやら熱心な勉強家のようで、二年生の今からここよりハイレベルな高校受験を目指して勉強中らしい。中高一貫校で、どれだけバカだろうが重大な事件さえ起こさなければ進学できるこの学校において、ご苦労なことだ。
そして上記の台詞からも読めるように空気が読めない。読めるのに読めないとはこれいかに。まぁ言ってることは間違っていないし、頭が良くて便利なので(化学や現国のグループ発表で彼は取り合いになる。結局すべてのグループを手伝わされる羽目になるのだからもはやどこ所属であろうと些末な差であろうとは思うのだが)嫌われたり虐められたりしているわけではないが、やはり浮いている。
そしてさらにどうでもいいことだが、殊更どうでもいいことだが、都都を好いている。都都と一緒にいるとこいつの視線が遠くから近くから刺さること刺さること。どうやらこいつもまた「ピアノのできるお嬢様」という属性にやられたクチであるらしい。
言うまでもないが都都はモテる。ただ本人に同級生を相手にする気はないらしくもっぱら私といちゃつく毎日である。いいのかそれで(性的な意味で)。ソノ気はあるってことなのかしら。
「私たちのことなら心配ないわ。こう見えてもゴーストバスターの資格を取ってるわ。通信で」
なんだか通信教育で空手の段位を取ったみたいな響きだな……。というかゴーストバスターって資格制だったのか。河童の捕獲には遠野で発行されている許可証が必要なのは周知の事実だが。 結婚するにも死ぬのにも資格がいる世の中だから仕方ないかもしれない。優しくなければその資格がないんですよ。
「まぁ、それならいいけど。明日の朝あたりに泣きっ面を見せることになっても俺は知らないからね」
そういう一言が君をクラスで孤立させてるんじゃないかな……。たぶん。私が言えたことではない気がするが。それにしても何で絡んできたんだろう? 普段は本を読むとか参考書と格闘してたりして、いかにも話しかけないでくださいって態度で言ってるような子なのに。
予想に反してお母さんの説得は上手くいった。というより、うちのお母さんの中での都都の信頼ゲージがマックスを振りきっていた。ただ、「夜の学校に警備の穴を付いて侵入する」、とも言えないので、蓋然いいわけが必要になる。オーソドックスにお泊まり会などと言っておいたが。というか、どちらにしろ、生きて帰れたら都都の家(というか屋敷)に泊まるのは確かなので、嘘は吐いていない。都都の家ならば多少遅くなっても勝手がきこうというものだ。
仮にもお嬢様であるというのにこれだけ自由でいいんだろうか、とも思うが、恐らく電柱の陰には訓練を受けた猛者猛者しいセコムが付いているのだろう。誰にも気づかれることなく、ただ放縦不羈を地で行くお嬢様の身体の自由を確保せんためだけに、その身を日陰者たらしめんとする男たちの熱いパトスに私は投げやりな賛辞を胸中送るのであった。今の一文は棒読みで結構である。
とはいえ、都都の爛々とした目つきが気になる。普段から頭が割かしおかしいのは百も承知なのだが、アイツはどちらかというと自分から何かを仕掛ける方が好きで、今回のように面白そうだから、という理由で巻き込まれ型のイベントに積極的に関わるタイプではない。
しかしながら、都都の思考をトレースすることなんてできないことは自明の理で、私は早々に考えることを諦めたのだが。この辺で気づくべきだった。